1. 「福音にふさわしい生活」とは何か
パウロは27節で、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と命じています。この言葉は、私たちを落ち込ませるかもしれません。「福音にふさわしい生活」と聞くと、聖書の教えや戒めを完璧に実行する生活を思い浮かべますが、自分の現実に照らし合わせると、ほど遠いと感じるからです。では、「福音にふさわしい生活」とは具体的にどのようなものでしょうか。
「生活を送る」と訳されている元のギリシャ語は、都市国家を表す「ポリス」という言葉から派生した動詞です。これは、単に信仰生活に限定されたものではなく、私たちが住む街や地域において、一市民としての義務と責任を果たしながら、なお天の国に国籍を持つ者として生きる、という広い意味を持っています。手紙の宛先であるフィリピの町は、ローマの植民都市であり、住民はローマ市民権を大きな誇りとしていました。彼らは「小さなローマ」と呼ばれるほど、ローマの法と慣習に従って生きていました。パウロは、そのような人々に「地上のローマ市民権ではなく、天に国籍を持つ神の国の民として、この地上の生活を生きなさい」と命じているのです(3章20節)。
また、「ふさわしい」という言葉は、元々は「量り」や「値段」を意味します。パウロは「キリストの福音の値段に釣り合う生活を送りなさい」と言っているのです。キリストの福音の値段とは、キリストが十字架の上で捧げてくださった命の代価です。私たちキリスト者とは、そのキリストの命の代価によって買い取られ、キリストの奴隷(僕)とされた者です(パウロが冒頭で自分を「キリスト・イエスの僕」と呼んだゆえんです)。私という一人の罪人がキリストの十字架という代価によって買い取られた結果、私はもはや自分のものではなく、主人であるキリストのものです。私たちが生きることは、もはや私ではなくキリストが生きているのと同じことなのです。
したがって、「キリストの福音にふさわしい生活」とは、私たちの弱さや欠けを認めながらも、命の代価をもって買い取ってくださったイエス・キリストへの深い信頼と信仰の内に生きていくことです。その結果、私たちは知らず知らずのうちに、私たちの内に生きておられる「キリストの香り」を放つようになるのです。
2. 福音に生きるときに起こる「信仰の戦い」
パウロは、私たちが天の御国に国籍を持つ神の民として地上を生きるときに、そこには信仰の戦いが起こると述べています(27節)。
「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦って」
フィリピの町は、ローマの慣習や神々を尊ぶ「親ローマ」の人々、特に退役軍人が多く住む都市でした。その中で、圧倒的少数派であるキリスト者が「神の民」として生きようとすれば、当然、28節で言うような反対者たちが現れ、様々な困難が起こることは避けられませんでした。これは、異教社会である日本に生きる私たちキリスト者にもリアルに響きます。私たちは、地域社会の慣習、家庭内の信仰に対する無理解、あるいは日曜日の礼拝を守ることへの職場や周囲の圧力など、様々な外側の反対者との戦いに直面します。
しかし、信仰の戦いは外側にある反対者との戦いだけではありません。むしろ日々直面するのは、私たち自分自身の内側にある反対者との戦いです。
たとえば「神を愛し、隣人を愛しなさい」という御言葉に向き合うとき、愛することがいかに困難であるかを知り、愛するということは甘い感傷ではなく、一つの戦いであると気がつきます。「あなたの敵のために祈りなさい」という御言葉も同様に、敵を許せない自分自身との戦いを生みます。そして信仰生活とは「神を信じることは無駄なのではないか」という疑いや、「程々でうまく信仰生活を送ればよい」という妥協の誘惑との戦いの連続なのです。
パウロは、このような信仰の戦いに伴う苦しみについても言及します。
「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(29節)
私たちは、信仰生活で喜びや楽しみだけを受け取りたいと願いますが、パウロは苦しみも恵みであると言い切ります。それは、私たちが受ける苦しみが、この地上の王国に属する者ではなく、天にある神の王国に生きる者とされているからこそ受けなければならない苦しみだからです。もし私たちがこの世の価値観と全く衝突せず、信仰の戦いを全く経験していないとすれば、それは私たちがキリスト者としてこの世の人とは異なるところに立っていない証拠かもしれません。私たちが信仰のために痛みや苦しみを経験しているならば、それは私たちがキリストに買い取られて天の御国の住人とされていることの証しなのです。だからこそ、信仰のための苦しみもまた、神の恵みとして与えられているものだと言うことができるのです。
3. キリストにある確かな勝利と教会の交わり
この信仰の戦いは、私たちの力で勝利できるものではありません。もし私たちの小さな信仰を守るための自己の戦いであれば、私たちはやがて挫折するでしょう。しかし、この戦いは、私たちに信仰を与えてくださった神ご自身が、その信仰を守るために戦ってくださる戦いです。
イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。
私たちの王であるキリストは、あらゆる苦難に打ち勝って勝利されました。そのキリストが私たちのために今も戦っておられます。だからこそ、パウロは確信するのです。この戦いの結末は、必ず反対者にとっては滅びであり、私たちにとっては救いとなるのだと(28節)。私たちはすでに勝利しているのです。
しかし、私たちはまだ完全な勝利を手にしているわけではなく、目に見えないキリストに信頼することは困難なときもあります。だからこそ、私たちには教会という交わりが必要なのです。パウロは、「一人で福音にふさわしい生活を送りなさい」とは言いませんでした。「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦って」いる時に、「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」
と教えるのです。
神は弱い私たちのため、目に見える神の王国である地上の教会を与えてくださいました。私たちは自分一人で戦い抜くことは困難ですが、キリストから与えられた同じ聖霊によって一つとされている愛する兄弟姉妹と共に戦うことによって、私たちはこの信仰の戦いをたじろがずに勇敢に戦い抜くことができるのです。世の戦いに疲れたとき、たじろがずにいられないときには、世に打ち勝たれた王なるイエス・キリストが共にいて、私たちの戦いを戦ってくださっていることを思い起こしてください。そして、私たち神の家族もまた、あなたと共に立っていることを信じ、励まされましょう。