2022年06月24日 朝の礼拝「キリストにもみられるもの」

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2022年06月24日 朝の礼拝「キリストにもみられるもの」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、““霊””による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

1. 喜びの中の気がかり
フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが投獄という苦難の中にありながらも、「喜びの手紙」と呼ばれるほど、キリストの福音の前進と、そのキリストに結ばれている確信による喜びが満ちています。しかし、そのパウロにも一つだけ気がかりなことがありました。それが、フィリピ教会内部で起こっていた兄弟姉妹の不和と対立という問題です。フィリピ教会は優れた賜物を多く持っていたにもかかわらず、一部には利己的な動機から福音を宣べ伝える者たちがおり、また4章には二人の女性指導者の対立も記されています。この不和は、教会全体を分裂させてしまいかねない深刻な問題でした。

2. 人と人を隔てる深い河
私たちにとっても、互いに心と思いを一つにして生きることは容易ではありません。夫婦や親子、友人、職場の人間関係といった最も身近な間柄でさえ、思いがすれ違い、誤解が生じ、価値観の違いによって分断されることがあります。私たちは、まるで自分と他者との間に深い河が流れ、孤立と分断を感じることがあります。この河は、人種や国を隔てるだけでなく、私たちの心の中にも流れ、自分自身を愛し、認め、赦すことができない自己との分断すら生み出しています。私たちは、この隔てる深く広い河に橋をかけることを必要としています。

3. キリストにある恵みという名の橋
パウロは、この教会の不和に対して、2章1節から2節で切なる願いを伝えます。
「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
この言葉は「もしあなた方に愛があるなら」という仮定の問いではなく、「あなた方には、すでにこれらのものが与えられているではないか」という確信の呼びかけです。パウロが挙げた「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」といった恵みは、私たちが礼拝の最後に聞く祝祷、すなわち「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しい交わり」という言葉と響き合っています。
 私たちは礼拝を通して、キリストの恵みと励まし、愛、そして聖霊の交わりを確かに与えられ、新しい一週間の歩みへと送り出されています。この「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、慈しみや憐れみの心」こそが、私たちを隔てる深い河にかかる橋となります。これらのものが与えられているからこそ、私たちは互いの心と思いを一つにするために、相手に近づくことが可能となるのです。

4. 分断の原因と「偽りの謙遜」
しかし、これほどの恵みを与えられながらも、教会の歴史は常に争いや分裂の危険に晒されてきました。神の家族である教会に分断が起こる原因はどこにあるのでしょうか。パウロは3節で、その原因を明らかにします。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。」
利己心、すなわち自己中心的な思いや、虚栄心、つまり実体のない空虚な誇り、自分の利益や栄光を求める思いこそが、私たちの心と思いを一つにすることを阻む最大の要因です。
 パウロはここで「へりくだり」を命じていますが、私たちが一般的に持つ「謙遜」というものは、しばしば外面的なマナーや態度に留まりがちです。贈り物をするときに「つまらないものですが」と言い添えるような態度は、内側に傲慢な自己中心が満ちていても、外面だけを飾る「謙遜」になりかねません。しかし聖書が教える真の謙遜とは、そのような外面上の振る舞いではありません。

5. キリストの謙遜という模範
パウロは、私たちキリスト者の真の謙遜とはどのようなものかを示すために、6節以下で、当時の教会で歌われていたと考えられている「キリスト賛歌」を引用し、イエス・キリストのへりくだりに私たちの目を向けさせます。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって、ご自分を空しにして、僕の身分になられ、人間と同じ者になられました。」
キリストは、この世界のすべてを創造され、意のままにすることがお出来になる神であったにもかかわらず、その力と栄光に固執せず、それを手放されました。私たちが神の領域に到達しようと修行や善行を重ねる世の宗教とは正反対に、聖書の神は、最も高い所から、私たち人間のところまで、ご自分を低くして降りてきてくださったのです。それは、弱い赤子として汚い馬小屋の飼い葉おけにお生まれになった姿に始まり、究極的には、ローマの重罪人が架けられる十字架の死に至るまで、ご自分を最も低くされた姿でした。何の罪もない御方が、私たちの罪を背負って命を捨ててくださった、それがキリストのへりくだりの姿です。父なる神は、そのようにへりくだられたキリストを高く挙げ、真の栄光の御名を与えられました(9-11節)。

6. キリストの命を生きる
パウロは5節後半の「それはキリスト・イエスにもみられるものです」という言葉で、私たちの謙遜とキリストの謙遜とを結びつけています。
私たちキリスト者の真の謙遜とは、単にキリストを「お手本」として見習おうとすることに留まりません。パウロは、このようなキリストの命を、あなた方は今や生きているのだと呼びかけているのです。私たちは罪深く、今も自己中心や虚栄心から逃れることのできない弱さを持っています。しかし、キリストを信じた私たちは、イエス・キリストの命を生きる者となり、そのキリストにも見られた真のへり下りの心を、恵みとして注がれているのです。もちろん私たちの表すへり下りは、キリストの最も低い姿には比べ物にならない不完全で僅かなものです。しかし、たとえ不完全であっても、私たちのような罪深い者が、キリストの持っておられたへり下りを恵みとして与えられているという事実は、驚くべき、素晴らしいことです。

 私たちは、この主の日の礼拝ごと、共に讃美歌を歌い、祝福の祈りを受けて送り出される中で、主イエス・キリストの謙遜を与えられ、私たち自身もキリストの御前にへりくだる者へと変えられていきます。このキリストによって与えられる真の謙遜にこそ、私たちキリスト者の強さがあります。私たちは、このキリストの謙遜という恵みによって、自らの利己心や虚栄心を手放し、他者に心から仕える者へと変えられます。そして、私たちを隔てる孤立と分断の河に橋が架けられ、互いに心と思いを一つにする一つの群れ、神の家族へと変えられていくのです。このキリストの愛と真の謙遜が、私たちの心にますます注がれますように。

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