1. 神のエネルギーによって「救いを達成する」
パウロは12節で「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧めています。これは、人間の努力によって救いを勝ち取れという意味ではありません。続く13節には「あなたがたの内に働いて……(善い業を)行わせておられるのは神である」と記されています。ここで「働く」「行わせる」と訳されている言葉は、英語の「エネルギー」の語源である「エネルゲオー」というギリシャ語です。私たちが「キリストに従いたい」と願い、へりくだって兄弟姉妹と一つになろうと努めるその動力源(エネルギー)は、神様ご自身です。神様が私たちの内で活動しておられるからこそ、私たちは救われた者として、その救いを日々の生活の中で実らせていく(達成していく)ことができるのです。そこで語られる「恐れおののく」とは、罰を怖がることではありません。自らの無力を認め、救いの主体である神様を「畏れ敬う」態度です。神の驚くべき御業の前に自らを低くするからこそ、私たちの良い行いは、自己満足や功績主義に陥ることなく、純粋な信仰の応答となるのです。
2. 「よこしまな時代」に輝く地上の星
パウロが「不平や理屈を言わずに行いなさい」と説く背景には、当時のフィリピ教会の中にあった不一致や高慢な争いがありました。もし信仰者が互いに批判し合い、自分が上に立とうとするならば、世を照らす光は失われてしまいます。パウロは、神の前にへりくだる群れを「よこしまな曲がった時代」において「地上の星(世の光)として輝く」存在であると呼びます。星は自ら光を放つのではなく、真の光であるイエス・キリストを反射して輝くものです。 一人一人の光は小さくても、教会が思いを一つにして同じ方向を照らすとき、その光はより明るく、遠くの暗闇にまで届くようになります。私たちはこの暗い時代において、キリストの「命の御言葉」を高く掲げ、人々に希望を示す役割を与えられているのです。
3. 信仰生活の核心は「喜び」にある
パウロは、自らが獄中で苦難の中にありながら、「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様にあなたがたも喜びなさい」と繰り返します。 キリスト者の歩みには、確かに試練や戦いがあります。しかし、パウロにとって苦しみと喜びは同じ重さではありません。キリストのために受ける苦しみさえも「恵み」であり、それを遥かに凌駕する圧倒的な「喜び」が信仰の歩みの中心にあります。
この喜びは、死んだ後の天国だけで味わうものではなく、「今、ここ」で味わうべきものです。パウロは「救いが完成したら喜ぶ」のではなく、「今、すでに喜んでいる」と宣言しています。私たちは、この地上の生涯においても、主が与えてくださる喜びを先取りして生きるように召されているのです。
4. 共に喜ぶことで満たされる「交わり」
私たちの喜びが本当に完全なものとなるためには、一つの条件があります。それは「兄弟姉妹と共に喜ぶ」ということです。 一人で聖書を読み、祈ることも大切ですが、それだけでは喜びには「欠けたところ」があります。主にある家族が顔を合わせ、互いの歩みを分かち合い、共に主を賛美する「交わり(コイノニア)」の中でこそ、喜びはより深く、確かなものへと満たされていきます。病気や困難で集えない時であっても、互いを覚え、祈りによって結び合うことで、その交わりは保たれます。私たちが愛を持って一致しようと努めるのは、そうすることでしか味わえない「主にある満ち溢れる喜び」があるからなのです。
主イエスは、私たちを暗闇の中に一人で放り出されたのではありません。同じ光に照らされ、同じ御言葉に生かされる「兄弟姉妹」という最高の仲間を与えてくださいました。 私たちは、共に礼拝し、共に喜び合うことを通して、この世の暗闇を照らす「地上の星」となるのです。