12節でパウロは「わたしの愛する人たち」という愛情に満ちた呼び掛けで、かつて彼らがパウロに対して従順であったように、今、自分が語っているこの勧めにも従順であって欲しいと語り掛けています。
12節の終り「自分の救いを達成するように努めなさい」という言葉は、何か自分たちの努力によって自分の救いが達成されるように努力しなさい、と言っているようにも読めますが、しかし続く13節で「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」とも述べています。
「御心のままに」という言葉は、直訳すれば「神の善意のために」あるいは「神の喜び・満足のために」という言葉です。そして「あなたがたの内に『働いて』」「み心のままに望ませ、『行わせておられる』」という言葉は、どちらもエネルゲオー(英語のエネルギーの語源)というギリシャ語が元になっています。
つまり私たちがキリストの福音に相応しく生きて、この御方に従って行きたいという願いを持つ事も、そしてそのためにへり下って兄弟姉妹と一致しようと努めるという事も、それらはすべて神御自身がエネルギー、活動の源であるのです。
フィリピの教会が抱えていた最も大きな問題が、教会内の不一致という事でした。もちろんそれが信仰の正しい理解を巡る正統な議論であったり、教会をより良くするための建設的な意見であれば良いのですが、しかしこの教会の場合には、自分が他の人よりも上に立とうとしたり、互いに相手を自分よりも低く見て不満をぶつけ合う思いが争いの原因であったのです。
そこでパウロは「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と彼らを戒めています。「恐れおののく」とは、「いつ神から罰が与えられるかわからない」とビクビクしている、という意味ではありません。それは自分が無力である事を認めて、自分で自分を救う力を持っていないと言う自分の弱さを認めて、自らを低くして神に依り頼むという事です。
と同時に、この「恐れおののく」という言葉をパウロは、人に対するへり下りの態度を表す表現としても用いています。
私たちの社会において、世の中のために良い働きをしているのは、何もキリスト教を信じている人ばかりではありません。ではそういう方々が行っている働きと、信仰者が行う福音に相応しい生活とは何が違うのでしょうか。それはその良い働きの背後に、この神に対する「恐れおののき」があるということではないでしょうか。
私たち信仰者は、私たちのために本当に低くなられて、僕の姿をおとりになった神の御子であるイエス・キリストのお姿を見上げ、そのキリストを通して表された神様の愛と驚くべき御業の前に恐れおののきます。そしてその神とキリストの前に自らを低くして、感謝と喜びを持ってその福音にふさわしく生きようと努めるのです。その時に、その私たちの生き方は決して人間の努力によって救われるという功績主義にはならないのです。
6節から11節のキリスト賛歌では、主イエスがご自分の神の栄光を投げ捨てて、十字架の死に至るまで神の御心に従順であられたが故に、神は主イエスを誰よりも高く挙げて、あらゆるものに勝る名をお与えになったと歌われています。そして15節でパウロは、同じように私たちもこの神の御前に恐れおののいて自らを低くするなら、神は私たちを地上の星のように輝かせてくださると言うのです。それは自分自身で光を放つのではなく、キリストという真の世の光を鏡のように反射させて世を照らすのです。私たちはこの邪で邪悪な時代において、キリストの命の御言葉を掲げて世の暗闇に光を灯す「地上の星」なのです。
その私たちが、一人一人バラバラな方向へ向かって光を放っていたら、その光は遠くにいる人には届きません。しかし私たちが思いを一つにして同じ方向へ向かって光を照らすなら、その光は一層明るく、遠くの方まで照らす事が出来るようになります。
パウロは最後の17節の後半から18節で「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様にあなた方も喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」という言葉で、この勧めを結んでいます。そしてこれが福音にふさわしい生活を送る私たち信仰者の行きつくところ、目指すところなのです。
確かに私たちは信仰生活において数多くの闘いを経験し、また苦しみを経験することになります。けれども、その私たちの信仰生活を根本的に形作っているもの、その中心となるものは「喜び」です。信仰生活の半分が喜びで、もう半分は苦しみや試練があるというのではありません。 たとえ私たちの現実に多くの苦しみや試練があるのだとしても、しかしそれらより遥かに多くの喜びが私たちの信仰の歩みにはあるのです。
しかもパウロはここで「私は救いが完成したら喜びます」と言わずに、「私は今、もうすでに喜んでいる」と述べています。そして「だから」あなたがたも「今」喜びなさいと勧めています。私たちはこの地上の生涯はただただ辛くて苦しくて、でもいつか天国に行ったら、そこで初めて喜ぶ事が出来るのではありません。