パウロは「福音にふさわしい生活を送りなさい」という勧めを語ってきましたが、その結びとして「私は喜びます。あなたがたも喜びなさい」と述べます。続いてパウロは、テモテとエパフロディトという二人の同労者に対する敬意をフィリピ教会に求めています。一見、当時の限定的な事情のようですが、ここには「教会の一致」「主にある喜び」というテーマが、きわめて具体的な形で示されています。
最初に挙げられるテモテは、パウロの“右腕”とも呼べる若い伝道者です。彼は信仰者の家庭で育ち、パウロの宣教旅行に同行して奉仕しました。パウロは彼を深く信頼し、自分の裁判が終わり次第、フィリピ教会の問題に対処させようとしています。その理由をパウロは「テモテほど親身になってあなたがたを心にかけている者はいない」と述べます。彼は自分の利益ではなく、キリストの福音に仕えることを求めているからです。
ここでパウロは、テモテの働きを「息子が父に仕えるように」とたとえつつも、「私に仕えた」とは言いません。「私と共に福音に仕えた」と語るのです。つまり、年齢差や経験の差があっても、キリストに仕える者としてはまったく同列であるということです。ここに信仰者の「へりくだり」の実例があり、キリストにあって上下関係のない、真の平等が示されています。
教会には信仰歴の長い人もいれば、洗礼を受けたばかりの人もいます。家庭環境や年齢もさまざまです。しかし、私たちは皆、同じキリストの恵みによって救われた者であり、主の前に上下の違いはありません。私たちの価値は信仰歴や役職の有無ではなく、キリストの恵みそのものによって定められています。
次にパウロは、フィリピ教会からの献金を届けに来たエパフロディトに触れます。彼はパウロの助けとなるために遣わされましたが、旅の途中、あるいは到着後間もなく重病に倒れ、生死の境をさまよいました。幸い回復しましたが、その知らせがフィリピにも伝わり、彼自身は教会を心配させたことに心を痛め、帰郷を願い出ます。しかし彼は、期待された務めを十分に果たせなかったという思いを抱えていたでしょう。
そこでパウロは、彼を軽んじる者が出ることを心配して、この手紙の中で強い言葉で彼を称賛します。「兄弟、協力者、戦友」であり、「キリストの働きのために命がけで仕えた」と。その奉仕は成果ではなく、キリストのために自らを献げた献身によって評価されるのです。
ここにも、教会で他者をどう見るかという原則があります。パウロは「互いに相手を自分より優れた者と考えなさい」と勧めます。それは劣等感を抱けという意味ではありません。むしろ“横”を見て比べるのではなく、“上”を見てキリストとの関係で自分を理解するとき、私たちは高慢にもならず、自己卑下することもなく、互いに仕え合うことができるということです。
そしてパウロは、エパフロディトが回復したことを「悲しみを重ねずに済んだ」と語ります。パウロは殉教さえも喜びと言える人物でしたが、それでも愛する同労者の死を前にしては深い悲しみを覚える、人間らしい心を持っていました。私たちも悲しむ存在です。信仰者だからといって悲しまずに生きられるわけではありません。主イエスご自身が怒り、涙し、悩まれたお方なのですから、私たちが悲しみを覚えるのは、むしろ自然なことです。
しかし私たちは、その悲しみの後に与えられる「主にある喜び」を知っています。それは表面的な楽天主義ではなく、悲しみを通った者だけが知る深い喜びです。パウロは牢獄の悲しみの中でフィリピからの慰めを受け、またテモテとエパフロディトという奉仕者が与えられました。
この喜びは「主に結ばれて(in Christ)」与えられる恵みの賜物です。私たちはこの主によって互いに思いを一つにし、互いを敬い、悲しみを越えて真の喜びに導かれます。主イエスにあって、今日も私たちは喜ぶことができるのです。