2022年08月07日 朝の礼拝「価値転換」

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 3章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは、子どもから成長して大人になっていく中で、徐々に自分の価値観や価値基準というものが作られていきます。そして大人になって自分の価値観が完成されると、今度はそれを変える事が難しくなってきます。しかし私たちは、たとえば大病をして生死の境をさ迷う経験をした時に、それまでの自分の生き方や価値観に疑問を大きく揺さぶられるという経験をします。そこで新しい価値感に目が開かれるという事、それがいわば「回心」という体験です。
 今朝お読みした箇所でパウロが語っているのは、いわばそのようなパウロ自身の回心体験、価値転換の経験についてです。
 パウロは2節以下で「ユダヤ主義キリスト者」と呼ばれる人たちについて言及しています。彼らは人が救われるためにはキリストを信じるだけでなく、旧約聖書にあるユダヤ教の律法、特に割礼の儀式を守ることが必要であると主張した人々です。
 そこでパウロはこの割礼を受ける事を主張する人々を「あの犬どもに注意しなさい。・・・」という、大変厳しい言葉を用いて非難しています。しかし彼らを非難しているパウロ自身も、かつては彼ら以上に律法を重んじ、割礼だけでなくその他のあらゆる律法を厳格に守る事を主張していた律法原理主義者でした。
 ですからパウロは5節、6節で自らの出自や経歴について触れていますが、そこで彼は自分は生粋のユダヤ人として自分を誇ろうと思えば、彼ら以上に多くのことを誇ることが出来ると述べています。
 そして事実、かつての自分は律法を守るという事において「非の打ちどころのない者であった」とまで述べています。ところが7節でパウロは、そのような自分の価値観が、ある日、それまでとは百八十度変わってしまったという事を語っています。
 彼は、それまで一生懸命に大切にし、価値あるものだと思っていたものが、実は自分を罪と死から救う事の出来ない、全く無力なものである事を知りました。そして反対に、自分がつまらないもの、むしろ害悪なものとすら見做していた福音が、実は得難い宝であるということに気が付いたのです。この価値転換、価値観の変革が私たちの人生に起きたとき、それを私たちは回心と呼びます。
 もしパウロが、キリスト教徒にならずにそのままユダヤ教徒として生きていたら、彼はユダヤ人の社会の中で一角の人物として名を残す事が出来たかも知れません。しかしキリスト教の伝道者となったパウロは、もはやそのような名誉や賞賛を受ける道を失いました。それどころか彼がそれまでユダヤ人として持っていたすべての有利な事柄を失う事になったのです。
 確かにパウロはキリスト者になることで多くのものを失いました。しかしその代わりに「イエス・キリストを得」ることが出来たのです。そしてパウロは、イエス・キリストを知った時に、それまで自分が誇りとし、生きる目的とし、正しい生き方だと信じていた道が全く色あせて見えるようになりました。必死になって正しい者になろうと努力していた事が、実は自分の救いには何の役にも立たない無駄な努力であったという事を今更ながらに思い知ったのです。

 イエスはある時、天の国について、それは「畑に隠されている宝」を見つけた人に似ていると言われました。その宝を見つけた人は喜びながら家に帰り、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買うだろうと言われました。パウロは正にその宝をイエス・キリストという御方の内に見出したのです。彼は本当に価値のあるもの、命の宝を見い出したので、このキリストのために他の全てのものを失ったとしても失望せず、このイエスの内にいる者と認められている事を喜ぶ事が出来たのです。

 では、私たちはどうでしょうか。私たちにもそれぞれに長所があり、誇るべきところがあります。これまで生きてきた中で得た経験や知識があり、もしかしたら財産や地位、名誉もあるかも知れません。それが何であるにせよ、自分がこれまで築いてきたもの、頼りとしてきたものをパウロのように「塵あくた」として葬り去ることが、果たして私たちに出来るでしょうか。あるいは、パウロは使徒だから「キリスト以外は塵あくただ」と言う事が出来たかもしれないけれども、自分はただの信徒だからそんな風に思えないと考えるでしょうか。
 しかし3:12でパウロ自身も「自分はすでにそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけではない」とも述べていますから、その点ではパウロも私たちと同じです。彼はあらゆる誘惑から解放されたのでも、地上の全ての束縛から逃れて聖人へと解脱したのでもありません。
 パウロはあのダマスコにおいてイエス・キリストという御方を知って回心体験をし、価値転換を経験したのですが、しかし今なお彼は、自分はまだ完全な者とされているのではないと述べるのです。そこでパウロは、今もその目標に向かって、キリストの苦しみと死にあやかることで日々、古い自分を打ち砕かれているのだと述べているのです。
 私たちがイエス・キリストという御方と出会い、この御方の素晴らしさの一端を知ったあの日、私たちの価値観は変わり、私たちの向いている方向は確かに変わったのです。しかしその時点では私たちの立っている位置は変わっていません。価値転換が起きてすぐの私たちは以前と変わらない同じ場所に立っています。しかしそこで私たちに見えている景色は全く違います。そしてそこから私たちが一歩ずつ足を踏み出して進んでいく事で、私たちの進む道は、それまでとは全く違っていることが徐々に明らかになってくるのです。

 パウロは3章1節で、これから自分が語ろうとしている事は、今始めて彼らに語るのではなく、以前からパウロが彼らに対して語ってきた事柄であって、そしてパウロはその事を、これからもう一度繰り返して書き送ると前置きしています。その理由は、これからパウロが語ろうとしている事柄が、フィリピの人々の信仰生活にとって決定的に重要な意味を持っているからです。
 彼らが信仰者として生きる上で、決して曖昧にしてはならない事柄がそこには含まれていて、この一点を見失ってしまったら、彼らはもしかしたらイエス・キリストの命の道を踏み外してしまうかも知れない、そういう彼らの命に関わる問題が、これからパウロが語ろうとしている事柄の中には含まれているのです。
 そのフィリピの人々の魂の安全に関わる事柄とは、私たちがイエス・キリストという御方をより深く知るという事、このイエス・キリストの内にいる者とされるという事です。そしてこのイエス・キリストという御方だけを私たちの誇りとするという事です。パウロはその事をフィリピの人々が本当に身をもって知る事が出来るようになるために、それを何度でも繰り返し語ると述べているのです。そしてそれは自分にとって煩わしいことではなく、むしろあなた方の魂の安全のために必要な事なのだと語るのです。

 私たちの信仰はイエス・キリストを信じて洗礼を受けたらそれで終わりなのではありません。
そこから私たちのイエス・キリストをより深く知り、キリストの内に生きるようになるための信仰の人生が始まるのです。

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