私たちの地上の生涯は、陸上競技に例えられることがありますが、13節、14節でパウロもまた、信仰者の人生を陸上競技になぞらえています。
キリスト教信仰を持っておられない方々にとって、人生のゴールとは「肉体の死」を指しています。その人生最後の瞬間に「ああ、いい人生だった」と満足して死ぬこと、それが多くの人にとっての人生の目標でありゴールです。そこでその人の人生の価値を最終的に決めるのは、「その人が生涯において何を成し遂げたか」という事です。しかし、それらのものは私たち信仰者にとっての最終的な目標やゴールではありません。あるいは私たちが信仰者として成長するということ、そして信仰の喜びに満たされるということもまた、私たちにとって大切な事柄ですが、それらは私たちの最終的な目標ではありません。
私たちの目指すべき目標、ゴールはこの地上の生涯にあるものではありません。私たちキリスト者の目指すべきゴールは、神が召して下さる「上」にあるのです。ですから私たち信仰者にとっては、肉体の死もまたゴールではなく、一つの通過点に過ぎません。私たちの目標とすべき救いの完成は、キリストが再び来られる時に、新しい肉体を持って復活し、そのキリストと永遠に共にいるようになることです。それが私たちの信仰の人生の究極的な目標であり、最終的なゴールなのです。その日が来るまで、私たちの信仰の人生が完成されることはありません。私たちの信仰の戦い、レースは、キリスト・イエスの日が来るまでは本当の意味では終わらないのです。ですから私たちはこの地上の生涯において、果たすべき目標を達成して「自分はもう十分やった、成し遂げた」と満足することは出来ないのです。パウロもかつては、自分がユダヤ教徒として多くの事を成し遂げたと自負していました。しかしキリストを知った時に、彼はその自分が「成し遂げた」と思っていたものは「塵あくた」になったと述べています。
そこでこの信仰のレースは、他の人よりも早くゴールに到達する事が目的ではありませんし、人よりも多く点数を稼ぐ事が重要なのでもありません。
パウロは、私たち信仰者にとって必要なただ一つのことは、この信仰のレースを最後まで走り通すということだと語っています。人より遅くてもいいし、周回遅れでも構いません。遠回りをしてもいいし、転ぶことがあってもいい。とにかくゴールまでたどり着く事が重要です。そうすれば私たちは、神からこの賞を頂く事が出来るのです。
しかし、だからと言ってこのレースは、楽なレースなのではありません。このレースに参加した者は、キリストの再臨の日に神から賞を頂くという目標を達成するまでは、この地上の生涯において完全な休息や安息を得る事は出来ないのです。事実、パウロはキリスト者となり伝道者としての人生を始めた事によって、肉体的にも精神的にも、多くの苦しみを耐え忍ばなければなりませんでした。しかしパウロはそこで「もう充分働いた。多くの地域を渡り歩いて福音を宣べ伝えて、教会を建てる事が出来た。もうこれで自分は満足だ」と言って信仰の歩みを止めて、腰を下ろして安息する事は出来なかったのです。なぜなら彼はまだ目標とするゴールに到達していないからです。彼はまだそれを得た訳ではないし、完全な者とされているのでもないからです。ですから彼は投獄されている今も、それを得るために走り続けなければならないのです。
私たちもそうです。私たちは一度、この信仰者としての人生のレースをスタートしたら、ゴールにたどり着くまでは止まることは出来ません。年をとっても、病気になっても、様々な苦難や悲しみに襲われることがあるとしても、兎に角ゴールに辿り着くまでは、走り続けなければならないのです。一体このような過酷なレースを、誰が最後まで走りぬくことが出来るでしょうか。
そこでパウロは、私たちが賞を得るための走り方の秘訣について、それは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走る」ことだと明らかにしています。「前のものに全身を向ける」と訳されている言葉は、前方にあるものに向かってそれを掴み取ろうと前に向かって体を伸ばすことです。
どこか見知らぬ町で親とはぐれて迷子になった子どもは、孤独と不安の中に一人取り残されて、必死に親の姿を探し求めて泣き叫ぶでしょう。一方で親も、自分と一緒にいるはずの子供がいない事に気が付いたらすぐに必死になって我が子を探し回ります。そして我が子を見つけたら、その子どもの名前を呼ぶでしょう。するとその迷子の子どもは、親の姿を見つけて、きっと一目散に親に向かって駆け出すでしょう。その時に子どもは、決して後ろを振り返って後戻りしたりしません。もし途中にお菓子屋さんやおもちゃ屋さんがあっても、きっと目もくれずに親のところに飛び込んでいくでしょう。
キリスト・イエスの日に向かって私たちが走り続けるという事は、その迷子の子どもと同じように、キリストに捕らえられた私たちが、この御方の元へと脇目も降らずに喜びながら走り寄っていくということです。
かつての私たちは神の元から迷い出て、神に背を向けて生きていました。しかしそれはもう過ぎ去った過去のことです。私たちはこれまで人生の中で様々な過ちを犯しました。そして様々な試練に出会い、傷つき、多くの涙を流してきました。しかしその私たちの罪はイエス・キリストがすべて十字架で贖ってくださいました。私たちの流した涙は、イエス・キリストがすべて拭い取ってくださいました。ですからそれらもまた過ぎ去った過去のことです。私たちは、過去に成し遂げてきたものを忘れて、過去に犯した過ちや過去の傷に支配されないで、ただ私たちを愛して、捕らえてくださったイエス・キリストを見つめて、この御方と共に生きるのです。
私たち信仰者は一人一人がこの信仰のレースへと招かれて、キリスト・イエスの日に向けて歩を踏み出したランナーです。まだレースを走り出したばかりの方もいれば、もうレースの後半に差し掛かっているという方もいるかも知れません。これからこのレースに参加しようとしている方もおられるでしょう。いずれにせよ、私たちがなすべきことは、今自分が立っているその地点から足を踏み出すということです。私たちの主がすでに私たちを捕えていてくださいます。私たちはこの主イエスによって必ず、最後までこの信仰の人生を走りとおすことが出来るのです。そして私たちは、このキリストによって神から与えられる栄誉ある賞を受けることが出来るのです。