2022年09月04日 朝の礼拝「地上の旅人」

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2022年09月04日 朝の礼拝「地上の旅人」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節

原稿のアイコンメッセージ

 今日この会堂には、色々な国から来られた方が一緒に参加していてくださっていますが、それは私たちにとって本当に幸いな事です。私たちが、やがて天の御国に行った時に、そこで捧げる礼拝もきっとこんな風に、人種や国籍、年齢や性別、性格や好みなど様々な違いを超えて、同じキリストの御名によって集められて共に讃美する場所だと思うからです。
 今朝の箇所には「私たちの本国は天にあります」という御言葉がありますが、今朝のこの礼拝も、天に国籍を持つ天の国の民として集められているのです。17節には「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」という言葉がありますが、しかしそれは、自分ような「完全な信仰者」になりなさいと言ってるのではありません。(当たり前ですが)この時代にはまだ、新約聖書という書物が存在しておらず、巡回伝道者たちが各地の教会を訪れて信徒たちを指導して、また別の地域へ移動するという事を繰り返していたのです。ところが、教会に定住の牧者がいないという事によって、今度はそこにパウロ達とは異なる教えを語る教師が入り込んで来るという事が起こったのです。ですからパウロは信徒たちに対して、そのような偽教師にではなくて、この私に倣いなさいと言わなければならなかったのです。
 続く18節で、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」と言っているのは、そのような異なる教えを教会にもたらす人たちのことを指していると思われます。彼らは、口ではキリストへの信仰を語りながら、しかし実際には自分の『腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えてい』ない者たちでした。「腹を神とする」とは、食欲をはじめとする自らの欲や楽しみを満足させることを目的として生きている人々のことを指しています。彼らは全くつまらないものを自らの栄光として誇り、この地上の生涯にしか関心を向けようとしません。彼らにとって生きる目的は、この地上の生涯において、自らの欲求を満たして完全な満足と安息を手に入れることでした。しかしパウロは言います。そのような生き方の先には「滅び」しかないと。私たちが地上の生涯における成功や満足を生きる目的として生きようとする、その先に待っているのは「滅び」でしかないのです。

 そこで、それに対してパウロは20節以下で、そのような「自分を神とする」生き方とは異なる道があることを示しています。それが『しかし、わたしたちの本国は天にあります。』という言葉です。この言葉は、キリスト教会の墓地の墓碑銘として刻まれることも多い御言葉です。しかし、パウロがここでこの御言葉に込めている信仰者の持つ希望と喜びとは、単に死ねば天国に行ってこの世の苦しみから解放される、という希望ではありません。パウロは続けて『そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています』と語り、更に『キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです』と述べています。そしてこれが私たちキリスト者が抱いている希望であり、最終的なゴールなのです。私たちが抱いている希望は、キリストのご支配がやがてこの世界の万物、あらゆる領域、全被造物にまで及ぶことになるという希望です。そして、その日には、この罪で汚れた私という人間もまた、魂だけでなく体も清められて、キリストに似た者にされるという希望です。そしてこのキリストと一つになって永遠に共にいるようになるという希望を、私たちは抱いているのです。

 パウロはかつて、自ら進んでキリストの敵となり、キリストの十字架を否定した人物でした。しかしそのパウロを主は憐れんで下さり、ご自分の使徒として選ばれました。パウロは今もなお、完全な者とはなっておらず、多くの罪や弱さを持ち続けていますが、しかしそういう自分がすでにキリストに捕えられており、やがてこのお方の栄光に与って魂と肉体の両方が浄められて復活の栄光に到達することが出来ると信じていました。ですから、キリストによって復活の恵みを頂くことが出来る喜びの日を目指して私は走り続けていると、自分について語る事が出来たのです。そしてパウロは、そのような自分を指さして「あなた方も皆、私に倣う者になりなさい」と言うのです。
 私たちは自分の信仰や自分の良い行いを指さして「私に倣いなさい」という事は出来ません。 しかし、こう言う意味においてなら、私たちもまたパウロのように「私に倣う者となってください」と言う事が出来るのです。ユダヤ教の割礼も律法も、世の知恵も権力も、私たちを復活の命へと導くことは出来ません。 それだけではなく、私たちキリスト者の深い信仰も、どんな良い行いも、私たちをこの復活の命へと導く事は出来ないのです。私たちに真の復活の命を与えることが出来るのは、主イエス・キリストとそのキリストの十字架だけなのです。
 私たちはすでに、この地上においてそのイエス・キリストに捕えられているのです。そしこの地上の生涯をこのキリストの僕として召され、地上を旅するキリストの民として、同じ天の国の民である愛する兄弟姉妹と共に、主イエス・キリストの御後に従って、キリストと共に私たちは今日も、そしてこれからも旅を続けるのです。『だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。』

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