2022年09月18日 朝の礼拝「主が近くにおられる」

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2022年09月18日 朝の礼拝「主が近くにおられる」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 4章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
4:2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
4:3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
4:4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 4章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 4章1節の「このように主によってしっかりと立ちなさい」という言葉は、ここまでパウロが語ってきた勧めと励ましの結論です。では「主によってしっかりと立つ人」とは、一体どのような人のことでしょうか。それは人生において経験する様々な闘いを、最後まで望みを失わずに闘い続けることが出来る人のことです。そして、主イエスにあって地上の生涯を天の国の民として最後まで走り続けることが出来る人です。パウロはこの手紙を書き終えるにあたって、フィリピの兄弟姉妹に、あなたがたはそのように主にあって堅く立つ信仰者であって欲しいと書き送るのです。
 ところが続く2節でパウロは、フィリピ教会で起きていた一つの深刻な問題に触れています。それがエボディア、シンティケという二人の女性信者の対立という問題でした。恐らく彼女たちは、フィリピ教会の中で指導的な役割を担っていた人たちであったと思われます。
 最初の時代の教会においては、女性が教会の中で預言(説教)をしたり、指導的な働きをする事は決して珍しいことではなかったようです。また女性だけでなく奴隷たちも教会の中で重要な働きを担っていた事も知られています。それは当時の社会常識からすればありえないことでした。
 ところが、そのように革新的な共同体であった教会には、一方で指導者同士が反目し合い対立するという問題が起きていたのです。そしてこれが教会の現実の姿でもあります。

 パウロはこの二人の信者の対立に心を痛めました。しかしパウロは、この4章まで来て、ようやく彼女たちの対立について触れています。しかもパウロはここで、彼女たちを責めたり、どちらかが悪いと裁定するような言葉を書かずに、それぞれに「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」という言葉で和解を呼び掛けています。
 パウロは彼女たちの問題を責める代わりに、彼女たちに「あなたがたは主において同じ思いを抱きなさい」と優しく語り掛けて諭します。パウロはどこかの誰かではなくて、今、あなたの隣に座って、あなたと一緒に礼拝を捧げているその兄弟姉妹」との間で「同じ思いを抱きなさい」と勧めているのです。

 もちろんエボディアとシンティケの二人も、頭ではパウロの言う事を理解していたでしょう。しかし頭で分かっていても感情的に相手のことを受け入れることが出来ないということは少なくありませんし、一旦関係がもつれてしまうと、それを本人同士の努力で修復することは難しくなります。そこで3節以下でパウロは、教会の「真実の協力者」に対して「この二人の姉妹をサポートしてほしい」と頼んでいます。人間的に見れば問題を抱えている二人の姉妹を、パウロは天の教会の会員名簿に名前が記されている私たちの仲間なのだ、と述べています。そしてその彼女たちが不幸にも今、感情的な対立に陥っている、だから教会はその彼女たちを非難したり、教会の交わりから遠ざけたりしないで、むしろそれを「同じキリストの体」の痛みと捉えて、祈りと配慮を持って彼女たちを支えて欲しいと求めています。

 そして、こう語った後でパウロは4節で、【主において常に喜びなさい】と述べています。投獄、殉教の危険、教会内の争い、これらはどれも普通は喜ぶことが出来ないものばかりです。しかしパウロは、そのような私たちが本来喜ぶことの出来ないような現実を語った後で必ず、「しかしあなた方は主にあって喜びなさい」と勧めるのです。
 良い事や嬉しいこと、喜ぶべきことがあった時に喜ぶ、それは信仰者でなくても誰にでも出来ることです。しかし決して喜ぶ事の出来ないような現実の中にあって、なお「主にあって喜ぶ」ことは、私たち天の国の国籍を持つ信仰者にしか出来ないことだからです。

 では、そのように苦しみのの中でなお湧いてくる喜びの泉の源はどこにあるのでしょうか。
今朝の4章2節、3節でパウロが名前を挙げている人達について、私たちは詳しいことを知ることは出来ません。しかしパウロは、そういう名もない普通の人々である彼らが、紛れもなく「命の書に名前が書かれている天の国の民」なのだと証言しています。それは彼ら自身の努力や能力によって得たものではなく、彼らはただ、主イエスの憐みによって、この命の書に名前が記された人達でした。同じように、この罪深い私たちをも、イエスは今も捕えていてくださるのです。私たちが誰かと争い、憎しみによって心から喜びが失われるときに、イエスはその愚かな私たちの名前を命の書から取り除かれるのではなく、私たちを御元へと呼び寄せて「愛する友よ、あなたに勧めます。私の名のもとに同じ思いを抱き、同じ愛を抱きなさい。私の名によっていつも喜びなさい」と語り掛けてくださるのです。この主イエスに結ばれている私たちの名前は、もう二度とこの命の書から消し去られる事はないのです。この決して失われることのない希望によって、私たちは「あなたがたは常に喜びなさい」というパウロの言葉の前に立つことが出来るのです。

 私たちの人生には本当に辛いことがあります。私たちを悲しませ、希望を失わせるような事が起こります。しかし主イエスはいつも私たちと共にある、ここに私たちの喜びの泉があります。私たちは地上の生涯を、この主に愛されて、主と共に生きることが出来るのです。
 だから私たちは、その主と共にある人生を常に喜ぶ事が出来るのです。「主は近い」その希望がある限り、私たちから喜びが失われる事はありません。主イエスは今日も、私たちのすぐ近くにおられるのですから。

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