4節でパウロは「主において常に喜びなさい」と語り掛けた後、続く6節で今度は「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と述べています。しかしいくら「あなたは思い煩ってはならない」と言われても、その言葉に反発を感じたり、最初から諦めてしまう人もいるでしょう。
しかし、この手紙の2章20節の「心にかける」と訳されている言葉は「思い煩う」と同じ言葉です。もしパウロが単純に、「思い煩う事は不信仰であるから、信仰者は何も思い煩ってはならない」と考えているのだとしたら、きっとこんな説明をしなかったのではないでしょうか。また、この手紙の宛先であるフィリピ教会がある町は、ローマの植民都市として栄えた町であり、異教の神々を信じる人達が大勢いる社会でした。そこで信仰を守り続けていくという事には、想像以上に大変な闘いがあったでしょう。パウロはそういうフィリピ教会の人々が生きている現実をよく知っていましたし、彼らが抱えている心配や思い煩いが軽いものではないという事もよく分かっていました。
そこでパウロは、『何事につけ・・・求めているものを神に打ち明けなさい』と教えています。思い煩いの中にある時に私たちがしなければならないことは、諦めることでも、自分の不信仰を責める事でもなく、神に『祈る』ことによって、求めているものを打ち明けて、知っていただくことです。
前回、ギリシャ語の「喜び」が「恵み」という言葉から派生して出来た言葉であるという事をご紹介しましたが、「感謝」も「恵み」という言葉から生まれた言葉です。
私たちは「喜ぼう」とか「感謝しよう」と努力しなくても、誰かに優しく親切にされたら自然に心に喜びが湧き、感謝の思いが生まれてくるはずです。そのように本来私たちの喜びや感謝は神からの恵みに目を開かれた時に、自然と私たちの心に湧き上がってくる感情です。そしてその神の恵みに対する感謝と喜びを持って求めるものを神に打ち明けなさいとパウロは言うのです。
そうするとここで私たちの心には別の疑問が浮かんで来るのではないでしょうか。マタイ福音書6章でイエスは弟子たちに「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」と教えられたように、私たちが祈るか祈らないかに関係なく、神は私たちが必要としているものをご存じのはずではないでしょうか。
そこで7節を見ますと、パウロは、私たちが自分の求めるものを神様に打ち明けることの目的について説明しています。普通、私たちがここで期待するのは、「そうすれば、その願いを神様がきっと叶えてくださるでしょう」という言葉ですが、パウロはここで「そうすれば、神の平和があなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守る」と述べています。
ですから私たちが自分が求めているものを神に打ち明けるのは、それを叶えてもらう事が目的ではなく、神に私たちの願いを祈ることによって、私たちの「心と考えとを守っていただく」ことが目的だとパウロは言うのです。
私たちの弱さも愚かさもすべてをご存じの上でありながら、なお私たちを愛してくださるこの神様の計り知れない大きな愛と恵みに感謝して、そしてこの御方に、いま私たちが抱えている願いや葛藤、苦しみや悩み、そして罪を、すべて打ち明けて、私たちの弱さも迷いもすべてをこの御方に聞いていただくのです。その時に、私たちの持っている願いや思惑を遥かに超えた「あらゆる人知を超える神の平和」が、私たちがこの世の思い悩みに押しつぶされてしまわないように、私たちの心を整えて神に向けさせて、その心と考えを主イエスにあって守ってくださるのです。
この愛なる神様が、私たちに「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と語り掛ける時に、それは単なる命令ではありませんし、気休めでもないのです。
小さな子供が泣いている時に、その子供に対して「泣くのはやめなさい」と叱りつけてみても、その子供は泣くのを止めるどころか、もっと大きな声で泣き叫ぶだけです。神は、小さく愚かな私たちの不信仰を叱りつけるのではなくて、泣いている私たちを抱きとめて、「そのあなたが求めているものを私に祈りなさい、打ち明けてごらんなさい」と言われるのです。そして『私はその祈りに答えて「あらゆる人知を超える私の平和」を与えよう。神の御子にあってあなたがたの心と考えとを私が守ると約束しよう」』と呼び掛けていてくださるのです。
この約束があるからこそ、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」という聖書の言葉は、もはや命令でも規則でもなく、キリストを通して神が私たちに与えてくださる「恵み」そのものとなるです。
もし今、皆さんの心を暗くしている思い煩いがあるのなら、何であれその心配事を主イエス・キリストの御名によって祈ってみて下さい。この愛なる神は必ず、その祈りに答えて私たちに揺るがない神の平和を与え、私たちの心と思いを守って下さいます。その事を確かに今朝、神は約束して下さっているのです。