2022年10月16日 朝の礼拝「すべてに対処する秘訣」

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2022年10月16日 朝の礼拝「すべてに対処する秘訣」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 4章10節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
4:11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
4:12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
4:14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 4章10節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 前回の箇所で、パウロはフィリピの人々に向けた信仰の勧めを語り終えました。
 その締めくくりの8節でパウロは「終わりに、兄弟たち」と語り始めて「徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」と述べています。
 ここでパウロが「徳や称賛に値すること」として挙げているのは、キリスト教会の中に限らず、広く社会全般において道徳的な徳の高いとされている事柄を指しています。教会は決して、一般の社会と切り離された場所として存在しているのではありません。教会はこの私たちが生きている現実の社会と繋がりをもって存在しているのですから、私たちは信仰者であると同時にこの社会で生きる人間の一員として、その中で起きている様々な問題や、そこで必要となる社会的な道徳や正義について、それを真剣に受けとめて考える責任があります。

 一方でパウロは、今度は自分がこれまで教えてきた教会の教え、すなわちキリストの福音とそれを実践しているパウロ自身の働きについては、それを「実行しなさい」と命じています。聖書の教えは、教会の中の内輪でしか通じない内向きの教えではありません。この世界を支配しておられる生ける神の言葉として、私たちが実行するように命じられている言葉なのです。
 そういう意味で、私たちの信仰生活は、決して教会の中だけで営まれるのではなく、私たちが今生きている現実の生活の中において「神の御言葉に従って生きる」営みなのです。
(そして、そういう私たちの信仰と現実の生活が密接に関連する代表的な事例が、この後の10節以下でパウロが触れている教会の「献金」という奉仕ですが、これについては、15節以降で詳しく取り上げてみたいと思います。)

 はっきりした理由は分かりませんが、フィリピ教会のパウロに対する献金は、前回献金が捧げられた時から、かなり期間が空いてしまったようです。そこで10節の「また表してくれた」という表現は、枯れてしまった植物がもう一度花を割かせる様子をあらわす言葉で、長い冬が終わって春が来て、枯れていた草木に再び花が咲くように、パウロとフィリピ教会の間に再び交流が甦ったという、パウロの大きな喜びがこの表現にも表れています。
 しかしパウロのその大きな喜びは、決して彼らが自らの経済的な貧しさを埋め合わせてくれたという事に対する喜びではありません。その事を誤解されないようにパウロはここで「物欲しさにこう言っているのではありません」と付け加えています。そして11節後半でパウロはその理由について「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と説明しています。

 私たちにとって、お金がなくなるとか、仕事を失うという事は大変に恐ろしい事です。その事は即、私たちの生活や命までも脅かす問題として、大きな不安や恐れを引き起こします。しかも、ここでパウロが述べているのはそういう貧しさや豊かさといった経済的な状況の事だけを言っているのではありません。12節の文章は、原文に忠実に翻訳すれば「低くされることも知っており、満ちあふれる事も知っている」という文章になりますが、私たちを「低くさせる」現実は、経済的な貧しさや仕事を失うこと以外にも無数に存在します。
 では私たちが、自分が貧しいのか豊かなのか、幸福なのか不幸せなのかを判断する基準は何でしょうか。それは第一に、自分自身の心の満足感や感情の問題です。そして第二に、他の人と比べてどうかという事です。自分はあの人よりもたくさん色々なものを持っているとか、反対に自分はあの人よりもどうも色々な事がうまくいっていないとか、私たちはそういう他人との比較の中で、自分が幸せか不幸せかを判断しているのです。

 最初に申し上げましたように、私たち信仰者もまたこの現実の社会の中に生きている存在です。ですから私たちはそういう「自分の感情」や「他人との比較」というこの社会が持っている幸福の規準や物差しから、完全に自由になる事は出来ないかも知れません。しかしそれでも私たちキリスト者は、そこでそういう世の中の幸不幸の規準、価値観とは異なる、まったく新しい価値観を持っていて、それによって自分自身の置かれている境遇を見つめる事が出来るのです。私たちは私たちを強くしてくださる御方、主イエスにあって、そのその新しい人生の見方、新しい価値観を授けられて、そこでどんな境遇にも対処する事が出来るのです。これこそがパウロが教えている、私たち信仰者があらゆる境遇に置かれても、そこで満ち足りる事が出来るようになる秘訣なのです。

 私たちの人生には、本当に辛く苦しい境遇を耐え忍ばなければならない時が訪れます。私たちには背負いきれない大きな重荷を、しかし背負い続けなければならない時が人生にはあるのです。
 そういう出来事を「この世の基準」、すなわち自分や他人を基準にして見つめれば、それはどこをどうひっくり返しても辛くて悲しい不幸な出来事でしかありません。 
 けれども、私たちがそういうこの世の幸せの規準とは違う価値規準を与えられて、その新しい価値観で私たちが生きているこの現実を見るときに、私たちは今、この真の生ける神の御子である主イエスの愛を注がれている。そしていついかなる時にもこの主イエスが私と共にいてくださる事を信じる事が出来ます。
 その事に目が開かれて私たちは、たとえ今、どんな境遇にあっても、たとえ私たちが肉体の死を通らなければならない時が来たとしても、この世の幸せ、不幸せの基準から自由にされて、この主イエス・キリストと共にある今を「常に喜び」「満ち足りる」事が出来るのです。そしてそれこそが、私たちが「天の国に国籍ををえられて天の国の民」としてこの地上の人生を生きるという事なのです。

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