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2025年07月20日「神のために力を合わせて働く人々」

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 3章1節~23節

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この世には様々な共同体があります。この世の共同体と違い、教会共同体は神様が立てられた共同体です。しかし、時には、教会の中に戦いと争い、また葛藤が起こる時もあります。私たちが学んでいるコリント教会も同じでした。今日の箇所でパウロは、コリント教会の間にあった争いや未熟な信仰を叱責し、教会とは何なのか、主の体である教会にどのように仕えるかについて教え、勧めます。すなわち、教会の本質と聖徒の成熟な信仰について教えます。パウロは、主の体である教会に仕えることにおいて人の功労と行いより、神様の恵みと神様がなさった出来事を強調しています。福音を受け入れ、キリスト人となったにもかかわらず、未熟な信仰であれば共同体の間に争いを起こし、神様の御心を成すために邪魔となる時があります。主の教会は熱心がある何人かの人や慣習、また伝統によって立てられるのではありません。十字架につけられたキリストの上に立てられると、主の教会は一つとなり、成熟な信仰者となります。

1節を見ますと、パウロはコリント教会の聖徒たちにこのように言います。[兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストの関係では乳飲み子である人々に対するように語ります。]  ここに出る霊の人とは、聖霊の導きと信仰によって実を結ぶ人生を生きる人を意味します。反対に肉の人とは、考えや感情などが自分中心的で、すべてが人間中心的な思いを持って信仰を理解する人を意味します。パウロは、このような人を乳飲み子のような人々だと言います。このような人は考えや思いも判断力も言葉使いも行動もすべてが未熟なのです。2節を見ますと、パウロは彼らに固い食物を与えず、乳を飲ませたと言います。乳というのは、基本的なキリスト教の教理を意味します。また、固い食物というのは、より深い信仰の原理と御言葉の実践を言います。このようにパウロは、コリント教会の聖徒たちが、外面的には多くの賜物を与えられたとしても、内面的には未熟だという事を指摘したのです。これは、今の時代に信仰生活をしている私たちにも同じように適用されます。どんなに多くの知識や賜物を持っていたとしても、信仰生活において自己中心的な考えや高慢な姿、また戦いや争いを起こすようであるならば、それはまだ成熟な信仰者とは言えないです。むしろ、乳飲み子のように未熟な信仰者だと言えます。

肉の人の、つまり、乳飲み子だという証拠は何でしょうか。それはねたみと争いです。3節を見てください。[相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか]
すでに学びましたが、コリント教会の中にはパウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派に分裂していました。これは、主の教会が人間を中心として働いていることを見せます。パウロは人々に対する執着こそが成熟した信仰ではないと強調しています。ある神学者は、教会の分裂は信仰が未熟である証拠であり、分裂は主の教会を壊すという証拠であると言います。主の教会らしく立てられる教会は、成熟な信仰者が多い教会です。

5節以下を見ますと、パウロは教会を立てるリーダー、役人の役割について言います。5節を見てください。[アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です] ここに“主がお与えになった分に応じて仕えた者”という御言葉に注目してください。パウロは自分とアポロを高くすることなく、ただ主のお働きをする仕える者、ほかの言葉に言い変えますと、道具にすぎないのだと言っています。この御言葉は、教会のリーダーと役人の役割について強く言います。高くなろうとする人ではなく、自分を低くして主がお与えになった分に応じて教会と聖徒たちに仕える人が、教会のリーダーや役人だという事です。

続いてパウロはこのように言います。6節を見てください。[私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です]
ここに出る“植え”というのは福音を伝え、また“水を注いだ”というのは、御言葉で養うという事を意味します。しかし、本当に成長させてくださる方は、神様だとパウロは言います。どんなに素晴らしく、優れた牧者だとしても、また教師だとしても、信仰の成長、信仰の実を結ぶようにしてくださるお方は神様です。
7節に[ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です]とパウロは言います。この御言葉は、教会の中で人を高くすることなど。人を評価することを禁じる御言葉です。教会の全ての働きは、神様の中で成し遂げられることであり、人々は仕える人だけです。この御言葉は、教会のリーダーや役人たちだけがすべてのことをしようとすることではなく、聖徒のお一人お一人が神様に頼り、主に与えられた賜物、使命を忠実に果たし、教会を立てるべきだという事を教えてくれます。

パウロは続いて言います。9節です。[私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです] この御言葉で重要な事は、人ではありません。私たちは神様のために力を合わせて働く者に過ぎません。神様の畑と建物である私たちを通して神様がお働きになるという事を悟らなければなりません。アウグスティヌスは、この御言葉についてこのように言ったそうです。“教会の主人はただ神様一人だけで、教会のリーダーや役人たちは、そのお方に従う番人、すなわち、教会に仕え、管理する人だ”と

10節を見てください。パウロは自分を熟練した建築家に比喩します。パウロは神様の知恵によって教会の土台を据え、また他の人がその上に家を建てていると言います。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきだと言います。そして、11節に[イエスキリストというすでに据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることはできません]と言います。
教会の土台は、主イエス・キリストです。イエス・キリスト以外の他の何かを土台とする教会は、正しく立てられることはできません。世の知識、政治、道徳、伝統、経験など。どんなものも教会の土台となることはできません。また、重要なことは、その土台の上に何を建てるのかが大切です。12-13節を見てください。[この土台の上に金、銀、宝石、木、草、またわらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです] 金、銀、宝石は火に耐える材料で、木、草、わらは簡単に燃えてしまうものです。外面的に立派に見えるかもしれませんが、働きの本質と動機が福音の上に、イエス・キリストの上に建てるのでなければ、結局崩れ、それぞれの人の働きは、動機と内容によって判断されるようになります。すなわち、終末の日、神様の審判の日にすべての働きは、神様の基準によって評価されるのです。これは、教会の牧師やリーダーや役人だけではなく、すべての聖徒が自分の信仰と使命を点検しなければならない理由です。私たちは、何によって主の体である教会を建てているのかを毎日、問いかけて答えなければなりません。

14-15節を見ますと、パウロは[誰かがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われる]と言います。ここで、重要な事は、土台の上に建てた仕事が燃え尽きてしまった人も救われますが、報いはないという事です。私たちは、救われたという事だけで安住してはなりません。主が来られる日、主の前で報いを与えられるように実を結ぶ人生を生きなければなりません。救いというのは、神様の恵みであり、報いというのは、従順の実であります。

最後にパウロは、教会である聖徒たちを神様の神殿だと言います。16節を見てください。[あなたがたは、自分が神の神殿あり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか] 神殿というのは、単純に建物ではなく、神様の臨在がある聖なるところです。聖徒たちは、神様がおられる神殿です。ですので、神殿を壊す人に対して警告します。17節です。[神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです] 神殿である私たちは、心はもちろん、言葉と行動の一つ一つが聖なる神様の御前で行っていることなのだという事を忘れてはなりません。
今日の御言葉は、信仰の成熟と教会の本質について教訓を与えます。成熟した信仰は、乳飲み子のように自己中心的な考えやねたみや争いを遠ざけ、互いに認め尊敬し、土台であるキリストの上にすべてを建てる信仰です。また、成熟した信仰者は、神のために力を合わせて働く人々として、全ての働きと人生を土台であるイエス・キリストに頼り、神様の畑と建物として忠実に自分の分を果たさなければなりません。聖徒である私たちは、神様の神殿です。神様が臨在しておられる神殿として神様が喜ばれる人生を生きるように最善を尽くしましょう。

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