十字架につけられたキリスト
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 2章1節~5節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 2章1節~5節
皆様がご存知だと思いますが、パウロは誰より多く学び、知識と学問が優れた人でした。さらに彼は誰より熱心な伝道者でした。彼が第二次伝道旅行中、アテネで伝道をしました。哲学の都市であるアテネで伝道する時、パウロは自分がイエス様を信じる前に学んだ哲学的な思考を用いてアテネで伝道をしたかもしれません。哲学的な思考が大好きなアテネの人々に合う言葉や言い方を通してイエス様を伝えたでしょう。しかし、アテネでの伝道は思ったより簡単ではありませんでした。人々の反応は、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか、彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」とあざ笑いました。その反応によって誰より優れた知識や学問者であったパウロは、大きな落胆に陥ったでしょう。伝道も説教も失敗したということは、パウロを苦しめたと思います。パウロにとって肉体の苦難には耐えることができたとしても、人々が主の福音を受け入れないということは、本当に耐えられないような気持であったかもしれません。
私はほかの牧師のように立派な説教ができないので、ある時は本当に挫折と落胆する時があります。自分なりに熱心に説教をしますが、皆様があまり集中できず、ほかのことをするのを見る時、また、居眠りばかりしてあまり反応がない時、その時は説教者として恥ずかしくて、“もうだめだ”と挫折と落胆をする時があります。もちろん、説教者の責任が大きいですが、この時は説教者として、“諦めようか”と思う時があります。経済的な厳しさと様々な困難は何となく耐えることができますが、説教者としての挫折感は本当に耐えるのが難しいです。
誰より多く学び、知識や学問が優れたパウロは、アテネで福音伝道を失敗したことで人間的な思いがあったかもしれません。しかし、彼はその状況を乗り越えます。彼自身はイエス様の中で死んだ者だと告白し、信仰によって立ち上がります。そして、一つとても大切なことを悟りました。それは、[十字架のほか道はない] ということです。それで、[十字架だけを誇る]と決心したのです。これが伝道者として成功したパウロの姿勢でした。
私たちクリスチャンは、最善を尽くして成功した人生を表わそうとする時があります。しかし、私たちが思った通りにできない時があります。それで、多くの挫折と落胆をする時があります。その時こそ、私たちは再び十字架に向かう姿勢を持たなければなりません。そうするならば、それらを乗り越える知恵ある人生を生きることができると信じます。
私も何度も聞いたことがありますが、クリスチャンの中にはこのような人もいます。[忠実なクリスチャンは、病気にかかることもなく、絶望的なことが起こることもなく、家庭の問題や社会のすべての問題もなく、祈った祈りはすべて自分が思った通り成し遂げられる] そうでしょうか。違います。忠実なクリスチャンも病気にかかって困難な状況に陥る時もあり、家庭や社会で様々な問題に遭遇する時もあります。祈っても神様が祈りを成し遂げてくださらないと思う時もあります。パウロがそのような人でした。忠実な伝道者でしたが、多くの苦難に陥り、迫害もありました。病気になりましたが、完全に治されませんでした。コリントの信徒への手紙二12章7節-10節を見ますと、パウロは自分の身にあるとげを離れ去らせてくださるように、取り除いてくださるように三度も主に祈りました。しかし、主である神様はパウロの思い通りではなく、[私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ]と答えてくださったのです。
神様は、私たちの全ての祈りを成し遂げてくださいますが、その方法は、私たちが思った通りではない時が沢山あります。[yes]、[no]、[wait]のような答えがあり時があります。またある時には、私たちが願った祈りよりも素晴らしい答えが与えられる時もあります。ですので、失敗と苦難など。これらの事を恐れる必要はありません。
説教を準備しながらこのような文章を読みました。利己中心的な人と人格的な人、また成熟した信仰者が、失敗と苦難に対しての態度が違うという話でした。利己中心的な人は、[失敗と苦難を避けなさい]と言い、人格的な人は、[失敗と苦難を忍びなさい。絶えなさい]と言うそうです。しかし、成熟した信仰者は、[失敗と苦難を楽しみなさい]と言うそうです。成熟した信仰者は、失敗と苦難を楽しむことができる人です。また、苦難の中に喜びを探すことができる人です。信仰によって生きる私たちは、そのように生きなければなりません。私たちは、神様の子どもです。全知全能の父なる神様は、世の終わりまで私たちと共にいてくださると約束してくださいました。今は、苦しく、多くの苦難が訪れているかもしれませんが、神様の愛と恵みは、いつも苦しみや苦難より大きいということを忘れてはなりません。
アテネを去ったパウロは、コリント地域に来ました。コリント地域でパウロは、自分が決心し、告白した通りただ、十字架だけを伝えます。今日の箇所、1節を見てください。[兄弟たち、わたしもそちらに行った時、神の秘められた計画を延べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした] すなわち、多く学び、知識と学問が優れたパウロは、コリント地域で福音を伝えた時には、そのような派手な雄弁や哲学的な言葉を使わず、伝道をしたということです。続いて2節を見てください。[なぜなら、私はあなたがたの間で、イエス·キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです] パウロは、ただ、十字架だけを伝えようと決心したことが分かり、実際にこの十字架につけられたキリストだけを伝えたのです。この十字架の福音から神様の力を表し、救いの喜びが与えられるからです。十字架はすべての人が嫌がるものですが、十字架のほかには、救いを与えられません。
キリスト教について分からず、信じない人たちはこのように言います。[独断主義者たち、キリスト教だけに救いがあると言うな] 彼らにとっては、キリスト教の教理を受け入れたくないという思いでしょう。キリスト教について分からない人や信じない人たちはこの言葉に同義するでしょう。しかし、イエスキリストだけが唯一の救い主なので、このイエスキリストを信じる私たちは彼らの発言に、意見に同義できません。パウロは救い主イエス様に出会ったので、十字架につけられたキリストだけを誇り、伝えようと決心しました。しかし、パウロはアテネと同じようなギリシアの中心的な都市であるコリントの地域で伝道することを不安に思い、心配したのです。彼らが十字架につけられたキリストを受け入れるのか、人々にあざ笑われないのかということでパウロは恐れを感じたでしょう。3節を見てください。[そちらに行った時、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした] コリントでの伝道がどうなるのかと心配したのでしょう。しかし、コリントでの伝道は多くの実を結びました。初代教会の中で一番大きな教会がコリント地域に立てられたのです。
アテネでの伝道とコリントでの伝道の違いは何でしょうか。環境も伝える人も同じでしたが、一つだけ違いがありました。それは、神様の愛とキリストの恵みが含まれている十字架があるかどうかという違いでした。すなわち、十字架につけられたキリストだけを延べ伝えたということです。私たちクリスチャンの人生の成功と失敗もこれです。私たちクリスチャンの人生の中に十字架につけられたキリストがあるかどうかによって私たちの人生はそれぞれ違うようになります。すなわち、十字架につけられたキリストこそ、人生の力であるという事です。
なぜ、十字架にはそのような力が現れるのでしょうか。4-5節を見てください。
[私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした] どういう意味でしょうか。
十字架につけられたキリストを伝えるならば、聖霊と神様の力がその上に現し、留まるからです。
ルーターが宗教改革を行った決定的な理由が何でしたでしょうか。彼には、力も物質も、味方もあまりいませんでした。しかし、彼は十字架につけられたキリストの福音を信じる信仰によって宗教改革を行ったのです。ただ、十字架につけられたキリストのほか、救いの道はないという事を悟りました。この十字架につけられたキリストを信じる信仰によって彼は、大きな力を持っていた人たちと戦いながら宗教改革を行うことができたのです。
私たちクリスチャンは、十字架につけられたキリストに頼るならば、山のような大きな問題を乗り越えることができます。しかし、自分が前に立つならば、小さな問題でさえ、倒れてしまうのです。
腐敗した信仰は、いつも自分を表わすことに関心があります。しかし、正しい信仰は、十字架につけられたキリストを固く信じ、頼ります。また、十字架につけられたキリストの恵みに感謝し、十字架につけられたキリストを表わします。また、十字架につけられたキリストに忠実に従うことに関心があります。さらに、キリストを通して愛を与えてくださった神様の愛を表わし、救いの恵みを与えてくださったキリストを伝えようとします。
今、日本の教会も韓国の教会も、全世界の教会も危機に陥っていると言います。この危機を乗り越える唯一の方法は、十字架につけられたキリストしかありません。十字架につけられたキリストに頼り、十字架につけられたキリストを伝え、聖霊と神様の力を求めることです。教会のリバイバルも十字架につけられたキリストを伝え、その中で生きることしかありません。
教会だけではありません。クリスチャンの中には、家庭の問題、職場の問題、経済的な問題、人間関係の問題など。多くの悩みによって苦しんでいる方が多いです。そして、今、世界中は戦争やテロ、また大きな災難によって不安を感じる人が多くいます。平安と平和、幸せな人生を求める人が多くいます。これら全てのこともこの世で解決し、与えられるのではありません。十字架につけられたキリストを信じ、頼るならば解決し、与えられるのです。十字架につけられたキリストの中で、本当の平和、本当の幸せ、本当の人生の意味が与えられます。十字架につけられたキリストの中で癒しも励ましも慰めも祝福も与えられます。弱く、みすぼらしく見えますが、十字架につけられたキリストの中で神様の愛と主の恵みとすべての祝福があることを悟り、十字架につけられたキリストに頼り、十字架につけられたキリストと歩む祝福される人生を生きましょう。