問い合わせ

日本キリスト改革派 善通寺教会のホームページへ戻る
2026年07月19日「私たちはキリストを納めた土の器」

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙二 4章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

信仰は本質的に関係の問題です。多くのクリスチャンは主を信じていると言いながら、主との関係を結ばず、絶えず変化する環境や感情、恐れとより深い関係を結んでいるのが現実です。ここに集まっている私たちはどうでしょうか。変わることのない主イエス・キリストと親しく交わり、その支配の中に生きているでしょうか。この問いに対する答えが、不安の人生と平安と喜びの人生を分けるのです。
今日の御言葉を通して、パウロは信者がキリストにあって真のアイデンティティを確立すべきであることを語っています。また、環境の試練に打ち勝つことを可能にする四つの神聖な勝利についても語っています。そして最後に、この生き方がもたらす栄光に満ちた、しかも意図せざる結果、すなわち私たちの内に目に見える形で現れる十字架と復活の力について語っています。

私たちは環境を超えて生きるために、まず自分が何者であるかを知らなければなりません。パウロは7節で、私たちに驚くべき、そして素晴らしいアイデンティティについて語っています。7節を見ると、[ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために]と書いてあります。
これは聖書の中で最も力強い比喩の一つです。古代世界において「土の器」は、最もありふれていて、壊れやすく、使い捨てられる器でした。安い器でした。
パウロは、私たちが栄光ある宝そのものではなく、むしろ弱い器であることを語っています。私たちの価値は、私たち自身から生じるものではありません。これは、私たちの弱さ、そしてそれ以上に神様の絶対的な主権に関するメッセージです。土の器の存在理由は、すべての力、すべての美しさ、すべての回復力が私たちからではなく、ただ神様から来るものであることを明確に示すためです。
器の目的は、自身に視線を引きつけることではなく、価値のあるものを収めることにあります。どんなに金の箱でも、中身がゴミなら結局はゴミにすぎません。しかし、高価な宝石を収めた平凡な土の器は、宝の箱となります。キリスト者の人生の戦いは、宝であるキリストを収めるにふさわしい器となることです。神様が弱く壊れやすい人々を用いることを選ばれたのは、その力の源が誰にあるのかを、誰にも取り違えさせないためです。もし私たちが偉大で強く、自給自足できる存在であったなら、その功績を自分のものにしようとする誘惑に駆られていたでしょう。そして外見を取り繕うことにすべてのエネルギーを注いでいたはずです。しかし、単なる土の器として生きるとき、私たちの焦点は変わります。もはや自分自身のイメージを気にするのではなく、内にある宝を守り、それを現すことに心を向けるようになるのです。
私たちのアイデンティティは、土の器のような存在です。これは、私たちを二つの大きな罠から解放します。第一に、自分の力で何かができると思い込む高慢から私たちを自由にします。第二に、「私はあまりにも弱く、壊れているから神様に用いられることはない」という偽りの謙遜から私たちを自由にします。それは不信仰です。神様は金の器を探しておられるのではなく、進んで用いられようとする器を探しておられます。神様は私たち、この土の器を選び、ご自身の偉大な宝を担わせてくださいました。これを悟るとき、私たちは言い訳をやめ、その御力により頼み始めるでしょう。
私たちが、キリストという宝を収める土の器であるというアイデンティティを受け入れるとき、人生の最も激しい圧迫に立ち向かう備えが整えられます。パウロはこの現実を、試練と勝利の四つの対句によって描いています。8‐9節を見てください。[私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない]と書いてあります。
ここで苦しめられるという意味は、外からの苦しみ・試練に押されている状態です。例えば、財政的なストレスや人間関係の葛藤、さらには精神的な苦痛といった人生の重荷によって生じる、息が詰まるような圧迫感です。この世は私たちを押しつぶし、活力を奪おうとします。しかし、パウロは[行き詰まらず]と語っています。つまり、押しつぶされることはないと語っています。なぜでしょうか。内におられる宝である生けるキリストが、外からの圧力に対して内側から働かれるからです。主は私たちを完全に満たしてくださり、もはや押しつぶされる余地はありません。この世の圧力は、主の臨在の力に決して打ち勝つことはできないのです。
続けて8-9節を見ると、[途方に暮れても失望せず]という表現が出ます。これは、私たちが道に迷ったときのことを指しています。目の前は霧に覆われ、混乱し、完全に方向を見失ったような状態です。まるで道なき森の中をさまよっているような気分です。そのような時、絶望は大きな誘惑となります。しかし、私たちは失望しません。なぜなら、イエス様が「わたしが道である」と言われたからです。
私たちの真の危機は、これからの道が見えないことではありません。イエス様から目を離してしまうことです。荒野を歩んだイスラエルの民には、地図はありませんでした。しかし、彼らには昼は雲の柱、夜は火の柱が与えられていたのです。彼らの道は、人格なるお方、すなわち神様の臨在でした。道を見失ったと感じるとき、その答えは新しい道を探すことではありません。初めの愛であるイエス様に立ち返ることです。そのお方こそが、まさに道なのです。
続けて8-9節を見ると、[虐げられても見捨てられず]という表現が記されています。[虐げられる]という意味は、まるで獲物のように追い回されることを意味します。私たちは、自分を滅ぼそうとする敵に追い回され、標的とされているかのように感じることがあります。悪魔は、ほえたける獅子のように歩き回り、だれかを食い尽くそうと探し回っています。そのような時、私たちはまるで完全に一人であるかのように感じてしまいます。しかし、私たちは「見捨てられることはありません」。私たちの良い牧者である天の父は、いつも私たちと共におられます。ダビデが詩篇23篇で告白しているように、「死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる」私たちを守ってくださる方の臨在こそが、私たちの確信です。私たちは決して、本当の意味で一人ではありません。
続けて8-9節を見ると、[打ち倒されても滅ぼされない]という表現が出ます。打倒されたというのは、決定的な一撃を受けて地に倒れることを意味します。これは、リストラで石打ちにされ、町の外に引きずり出され、死んだものと思われていたパウロの経験を完全に描写しています。すべての面において、もう終わりであるかのように見えました。しかし、彼は「滅ぼされませんでした」。彼は再び立ち上がり、宣教の働きを続けました。これこそ、復活の力なのです。これは、エゼキエルが見た枯れた骨の復活の幻を思い起こさせます。それは、完全な絶望の光景でした。しかし、主の御言葉が語られ、聖霊の息吹が吹き込まれた時、その枯れた骨々は立ち上がり、偉大な集団となったのです。
たとえ人生によって打ち倒され、自分自身が枯れた骨のように感じる時であっても、キリストを死からよみがえらせた復活の力が、私たちの内に働いています。
私たちは決して滅びることはありません。

それでは、キリストという宝で満たされた弱い土の器が、このような圧迫に耐えるとき、何が起こるのでしょうか。栄光に満ちた神聖な目的が明らかにされます。
10を見てください。[私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために]
土の器は、私たちの弱さ、私たちの苦難、すなわち私たちが身に負っている「イエスの死」を象徴しています。宝は、主の力、主の栄光、すなわち「イエスのいのち」を象徴しています。宝が現れるためには、器は低くされ、さらには砕かれなければなりません。
私たちの砕かれは、私たちの敗北ではありません。それは、キリストの光が漏れ出るその通り道なのです。私たちが押しつぶされるとき、主の回復の力が現れます。私たちが道を失うとき、主の導きが明らかにされます。私たちが倒れるとき、主の復活のいのちが現れます。
私たちの苦難は無意味ではありません。私たちの犠牲、主のために喜んで費やされようとする私たちの心は、主のいのちが他の人々へと流れ出る通り道となるのです。12節を見てください。パウロははっきりと語ります。
[こうして、私たちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります]  私たちが自分の高ぶり、安楽、そして自分の意志に対して死ぬとき、私たちが仕える人々の心の中に、キリストのいのちが生まれます。
この恵みの循環は、私たちのところで終わるものではありません。それは聖なる連鎖反応を引き起こします。私たちは信じているゆえに語ります。神様がイエスを復活させたのであれば、神様はまた私たちをも復活させ、さらに私たちの証しを聞く人々をも復活させてくださいます。では、これらすべての究極の目的とは何でしょうか。15節を見てください。[すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためである]  これらすべては、神様に栄光を帰する感謝へとつながっていきます。
聖徒の皆様。
今こそ私たちは、自分の器がどれほど弱いかという心配をやめるべきです。それよりも、自分のアイデンティティが何であるかを知り、悟らなければなりません。私たちは、宇宙の万王の王が、その御子という計り知れない宝を宿すために選ばれた、平凡な土の器なのです。世の圧力が私たちを押しつぶすことを、恐れる必要はありません。人生が私たちを混乱させることがあっても、絶望してはいけません。追い詰められ、倒れるときも、私たちは決して見捨てられたのではなく、滅びることもないのだと覚えていてください。私たちの弱さの中で、主の力は完全に現されるからです。私たちの砕かれる中で、主の光は最も明るく輝くからです。そして、危機ではなくキリストの支配のもとにある私たちの人生を通して、感謝があふれ出て、とこしえに神様に栄光がささげられるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す