私たちはキリストの手紙
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙二 3章1節~18節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙二 3章1節~18節
今日私たちが読んだコリントの信徒への手紙二3章は、新しい契約の奉仕者について教えています。それはキリストが私たちを用いてお書きになった手紙、すなわち、私たちが[キリストの手紙]であるということです。これは単なる比喩ではなく、神様が聖徒をどのようにご覧になっているかを明確に示す宣言です。
通常、会社が社員を募集する際には、さまざまな書類の提出を求めます。その中の一つが履歴書です。
履歴書を見れば、その人がどの大学で学び、何を専攻し、これまでどこでどのような仕事をしてきたのかを一目で知ることができます。
その人の経歴について知ることができます。つまり、履歴書を見るだけで、その人が自分の会社で働くことができる人なのか、会社に入る資格があるのかないのかを判断することができます。教会も同じです。牧師を招聘する際には、このようなことが求められます。
しかし、パウロが活動していた時代には、状況は全く異なっていました。
神学校もなく、新約聖書もまだ完成していませんでした。それでは、誰が真の説教者であり、誰が福音を委ねられた者であるのか、どのように判断することができたのでしょうか。当時は、推薦状が重要な役割を果たしていました。
どの使徒が推薦した人物であるのか、どのような権威ある人物に認められたのかということが、その人の働きを保証する基準となっていました。実際に、ユダヤ主義的な背景を持つ偽教師たちは、このような推薦状を掲げて教会に入り込み、教えを説きながら影響力を及ぼしていました。
そのような状況の中で、パウロは絶えず攻撃を受けていました。
彼はイエス様の十二弟子の一人ではなく、公式的な推薦状も持っていなかったからです。コリント教会の中でも、「パウロは使徒ではない」「彼をどのように信じることができるのか」という疑問が提起されました。
しかし、これは非常に愚かなことでした。なぜなら、コリント教会はパウロ自身が福音を伝えて建てた教会だったからです。パウロは第二次伝道旅行の途中、一年六か月の間、コリントにとどまり、涙と献身をもって彼らを養いました。
彼らが信じているイエス・キリストは、パウロが伝えた福音であり、彼らの信仰もまた、パウロの働きを通して形づくられたものです。それゆえに、パウロは2節で明確に語ります。
[私たちの推薦状は、あなたがた自身です] この言葉は単なる表現ではありません。
コリントの信徒たち自身が、パウロの使徒職を証明する生きた証拠であるという意味です。
さらにパウロは、彼らが「キリストの手紙」であると宣言します。3節をご一緒に読みましょう。
[あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。]
ここで私たちは、聖書が教えている核心を明確に確認しなければなりません。
新しい契約の奉仕者の権威は、人間的な資格や外的な条件から出るのではありません。
ただ、神様が成し遂げられた救いの実から出るのです。人が書いた推薦状ではなく、神様が信徒の人生の中に刻まれた変化こそが、真の証拠です。罪の奴隷として生きていた人が、福音によって新しい命を受け、変えられた生き方をしていくこと、これこそが、神様がその働き、その奉仕を認められた確かな証拠なのです。
3節から5節を見ると、パウロは続いて旧い契約と新しい契約を対比しています。
旧い契約は、石の板に刻まれた律法でした。しかし、新しい契約は、聖霊が人の心に直接書き記される契約です。これは、預言者エレミヤが預言したように、神様ご自身がその律法を心に刻んでくださる恵みの契約なのです。
この違いは、本質的な違いです。律法は罪を明らかにし、罪に定めます。しかし、福音は罪人を生かします。
律法は人間の無力さを明らかにしますが、福音は神様の力を現します。
6節の後半部分を見ると、[文字は殺しますが、霊は生かします]と書いてあります。
この御言葉の意味は、律法そのものが悪いということではありません。律法は聖く、正しく、そして良いものです。
しかし、堕落した人間にとって、律法は結局、罪に定める働きをせざるを得ません。
なぜなら、人間には律法を守る力がないからです。それに対して、福音は聖霊によって働き、死んだ魂を生かします。
これこそが、改革派神学が強調する恵みの絶対性です。救いは人間の行いによるのではなく、完全に神様の恵みによって成し遂げられるのです。
7節以下を見ると、パウロはまた、旧い契約の栄光と新しい契約の栄光を比較しています。
モーセが神様の栄光を見て山から下りて来たとき、その顔は輝いていました。しかし、その栄光はやがて消え去る栄光でした。それでモーセは、顔に覆いをかけました。しかし、新しい契約の栄光はこれとは異なります。それは消え去ることのない栄光であり、ますます増し加わっていく栄光です。聖霊が働かれる福音の栄光は、永遠のものなのです。それにもかかわらず、なぜ人々は福音を悟ることができないのでしょうか。パウロはそれを「覆い」によって説明しています。人々の心が覆われているからです。この覆いとは、人間の罪の性質と霊的な無知のことです。
特に、律法や外的な条件に執着する人々は、福音の本質を見ることができません。彼らは今もなお、「推薦状があるのか」「資格があるのか」「条件が満たされているのか」のような外的な基準に縛られています。
しかし、その覆いは、ただイエス・キリストにあってのみ取り除かれます。聖霊が働かれるときにこそ、人は初めて福音を悟り、神様の栄光を見るようになるのです。
17節にこのように書かれています。[ここで言う主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります] この自由は、単なる感情的な解放ではありません。それは、律法の定める罪の宣告から解き放たれる救いの自由であり、罪の力から解放される実際的な自由なのです。そして、聖霊は私たちを変えてくださいます。「栄光から栄光へ」と、ますますキリストの姿に似た者へと変えてくださるのです。
18節をご一緒に読みましょう。
[私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです]
これこそが聖化です。真の信仰には、必ず人生の変化が伴うのです。聖霊が私たちの内に住んでくださる人は、決して以前と同じようには生きられません。ですから、私たちは自分自身に問いかけなければなりません。私たちは本当に「キリストの手紙」なのでしょうか。私たちの人生を通して、イエス・キリストは現されているのでしょうか。私たちを見る人々は、神様を知ることができるのでしょうか。
今日の教会の中にも、外面的なものに満足している人々が多くいます。
どの学校を卒業したのか、どのような役職を与えられたのか、どの教会に通っているのか、これだけの献金をしている、これだけ奉仕をしているということで、信仰を判断します。これらのことは、ある程度助けになり、参考になることもあります。しかし、これらのものに執着してはいけません。なぜなら、それらは本質ではないからです。本質を失い、いのちのない信仰は、最も哀れな状態なのです。
真の信仰は、聖霊の働きによって現されます。真の教会は、福音の力によって建て上げられます。
真の信徒は、キリストの手紙として生きていきます。私たちが「イエス様の手紙」であるということは、胸が震えるほど感動的な言葉であると同時に、大きな責任を伴う言葉でもあります。人々は私たちを通して教会を見ます。私たちの生き方を通して聖書を読みます。私たちの姿を通して、イエス・キリストを判断します。この事実は、私たちにとって大きな栄光であると同時に、非常に大きな責任なのです。
聖徒の皆様。
これから私たちは、聖霊の導きに従い、福音の中で与えられた自由を味わいながら生きていきましょう。そして何よりも、私たちの主であるキリストの姿に似た者となることを目指して歩んでいきましょう。そのために、私たちの人生全体が、この世の中で読まれる「キリストの手紙」となることを願います。主の恵みと聖霊の力が、私たち一人ひとりと共にありますように願います。
