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2026年05月31日「慰めを豊かにくださる神」

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙二 1章1節~11節

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私たちは、ヨナ書を学ぶ前にコリントの信徒への手紙一を学びました。
特に印象に残っているのは、主の教会のために、一部の人ではなく、皆で力を合わせて教会を正しく築き、仕えていこうという思いでした。
言い換えれば、コリントの信徒への手紙一は、知識や能力に優れた一部の人のためのものではなく、共に働き、共に笑い、共に困難を乗り越えてきたすべての人々の物語だったのです。
すなわち、コリント教会に様々な問題がありましたが、神様の愛と恵みを覚え、神様から与えられた賜物を持って互いに一つとなり、共に主のため、教会のために正しく仕えていこうという手紙の内容でした。このようにパウロはコリントの信徒への手紙一を締めくくり、さらにコリントの信徒への手紙二を通して、共に働いた多くの協力者たちを慰め、励まし、また勧めているのです。
パウロが書いたコリントの信徒への手紙二の目的は、三つにまとめることができます。
第一の目的は、パウロ自身の使徒職の正当性を弁明するためでした。1章から4章、また10章から13章に見られます。
コリント教会の中には、パウロが本当の使徒ではないと言う人たちがまだいたため、パウロはそのような人たちに惑わされないように勧めたのです。
コリントの信徒への手紙二の第二の目的は、コリント教会の信徒たちとの健全な関係を回復することでした。
8章と9章を見ると、コリント教会のユダヤ主義者たちは、パウロとコリントの信徒たちの関係を引き裂き、教会を支配しようとしたのです。
このためパウロは、コリント教会に残っているユダヤ主義者たちの影響を一掃し、信徒たちが再び愛の関係に立ち返ることを願って、この手紙を書いたのです。
コリントの信徒への手紙二の第三の目的は、エルサレムの信徒たちを助けるための献金を呼びかけることでした。
当時、エルサレムの信徒たちはクラウディウス皇帝の時代にパレスチナ地方を襲った飢饉によって貧困に苦しんでいました。
異邦人の使徒となったパウロは、以前からエルサレム教会の使徒たちに救済献金を託されており、宣教の働きに励みながらも、その務めを大切に果たし続けていたのです。
貧しさを経験した人は貧しい人の気持ちが分かり、病に苦しんだ人は同じように苦しんでいる人を理解することができるのです。
さらに、多くの困難や痛みを経験してきた人は、困難の中にいる人や苦しんでいる人を慰めることができます。
痛みや苦しみを長く深く味わってきた人の温かい一言は、そうした経験のない人の多くの言葉よりも大きな力となり、慰めとなるのです。
このように、誰よりも多くの苦難と迫害を受けたパウロは、福音のために苦しんでいるコリントの信徒たちやアカイア地方の信徒たちに、慰めの手紙を送りました。コリントの信徒への手紙二は自伝的な性格を持ち、パウロの生涯や人間味あふれる姿がよく表れた、非常に個人的で率直な手紙です。彼はこの手紙の中で、自らの弱さや悲しみ、苦難、そしてその中で経験した神様の恵みと慰めを、深く分かち合っているのです。
特に第1章は、手紙全体の始まりであり、苦しみの中にあるコリント教会に向けた「慰めの宣言」です。
今日の箇所である3節から7節を見ると、「慰め」という言葉が9回も記されています。
私がギリシャ語聖書も調べましたが、この言葉は9回出てきます。
しかし、韓国語聖書では10回出てきます。翻訳の違いがあるのかもしれませんが、とにかく、なぜこの手紙の冒頭からこのように「慰め」という言葉が多く用いられているのかを考えました。

1節から2節を見てください。
挨拶から始まっています。[神の御心によってキリスト·イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。]
パウロは手紙の冒頭で、まず自分が神様の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたことを明らかにしています。
そうしなければ、反対者たちが彼はイエスの十二使徒ではなかったと主張し、争いを引き起こすことを知っていたからです。
ある意味で、この部分はパウロにとって最もつらいことだったのかもしれません。
イエス様に直接お会いすることも、一緒に働くこともできなかったことが、いつも彼自身を苦しめていたと思います。
彼自身だけでなく、彼に従う人々も共につらい思いをしていたのかもしれません。
しかし使徒パウロは、直接イエス様と共に苦楽を共にすることはできなかったとしても、どの弟子にも劣らないほど親しい御声によってイエス様との出会いを経験した者であると、自ら確信していたのです。だからこそ、このような反対者たちの攻撃にも恐れることはありませんでした。
今のパウロにとって最も必要であったのは、慰めの神様でした。慰めの神様こそが、今まさにパウロにとって絶対的に必要であったのです。
こうして彼は、いよいよ慰めの神様と自分自身について、困難な時期とともに、慰めの物語を語り始めています。

3節から4節を見てください。[私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神が褒めたたえられますように。
神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。] 
パウロは、続く苦難と、それに対して続く神の慰めとが結び合わさることによって、真のキリスト者であることが示されると語っています。
言い換えれば、キリスト者の苦難や迫害の中にこそ、慰めの神様の働きがはっきりと現れるということです。
したがって、キリスト者として生きることは大変で困難ではありますが、慰めの神様が常に共におられるので、それらを十分に乗り越えることができるのです。旧約においても同様です。
イザヤ書51章12節に[わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。なぜ、あなたは恐れるのか、死ぬべき人、草にも等しい人の子を。] と書いてあります。
また、イザヤ書6章13節に[母がその子を慰めるようにわたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。] と書いてあります。慰めの神様は、イザヤのような預言者を通しても、パウロを通しても同じように宣言しているのです。

5節を見てください。[キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。] ここで言うキリストの苦しみとは、キリストご自身が受けられた苦難を指すのではなく、キリストの福音のために労する者が受ける苦しみを意味します。
言い換えれば、「私たちがキリストとともに受ける苦難が多いように、キリストによって受ける慰めもまた多い」ということです。
パウロは、キリストと関係を結んでいる限り、苦難や困難、そして迫害は避けられないものだと考えていたのです。
ですから、コロサイの信徒への手紙1章24節の「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストのからだである教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」という告白をすることができるのです。

パウロは8節から10節にかけて、実際に経験した苦難と慰めについて語っています。
パウロはアジア州で受けた苦難を語りながら、最も重要な真理を宣べ伝えているのです。
まさに、死刑宣告を受けたかのような苦難こそが、かえって神様と真に出会う機会であると語っているのです。
逆説的に言えば、命が危うくなるほどの苦難もなく、順調に進み続ける働きであるならば、それはむしろ毒となり得るということでもあります。
口では神様の恵みや神様の導きだと告白するかもしれませんが、そのような働きや宣教が順調に続いていくなら、逆に神様に頼る心は弱くなりがちです。
むしろ、自分の力や自分の誇りが神様よりも前に出てしまう可能性があるという事実を、心に留めておくべきでしょう。
ですから、パウロは恵みよりもむしろ苦難をより強調しているのです。
彼はアジア州で受けた苦難を通して、むしろ私たちが自分自身を信頼するのではなく、死者をよみがえらせる神様を信頼するように導かれているという真理を悟ったのです。
そして神様は、このような死の危険の中から私たちを救い出してくださったように、今もなお救い出してくださると信じ、さらにこれからも救い出してくださるという希望を神様に置くことができたのです。
パウロがコリント教会に示したように、福音は物乞いするものではなく、宣べ伝えるべきものであることを忘れてはなりません。
教会の栄光を回復する唯一の道は、ユダヤ人にはつまずきとなり、ギリシア人には愚かに見えたその十字架の福音を、再び大胆に叫び、証しすることのほかにはありません。
そのようにしてこそ、苦難の中で共にいてくださる慰めの神様が、真に私たちを慰めてくださると信じます。
「夜が深くなるほど、星はいっそう輝く」という諺があります。
この諺の意味は、困難や苦しみが深まるほど、その中で希望や真価はよりはっきりと輝くということです。
すなわち、義の道を歩みながら迫害を受けている多くのキリスト者にとって、本当に温かい慰めの言葉であり、力となる言葉です。
今日私と皆さんが、キリストの残された苦難を共に担い、パウロが告白した慰めの神様に必ず出会い、経験し、ともに歩むことができますように、心から願います。お祈りいたします。

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