目に見える問題よりも大切なもの
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 2章1節~12節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章1節~12節
私たちは、体調が悪くなったり病気にかかったりしたとき、病院に行って診察を受け、治療を受けます。しかし、ここで大切なことがあります。一般の医師に診察を受け、治療を受けるのか、それとも専門医に診察を受け、治療を受けるのかという点です。では、一般医と専門医の違いをご存じでしょうか?一般の医師は、患者が病院に来たとき、表に現れた症状だけを治療し、それだけに集中します。しかし、専門の医師は、痛い部分を治療するだけでなく、その治療による後遺症や副作用などもあわせて考慮して治療します。また、その病気の原因を突き止めます。なぜでしょうか。患者が感じている問題と実際の原因は異なる場合があるからです。専門医は、患者が話すその症状をそのまま受け取るのではなく、その背後にある本質を診断します。これが一般医と専門医の違いです。
今日の箇所で、私たちはまさにそのような場面を見ることになります。人々は一人の中風の人をイエス様のもとに連れて来ます。彼は自分で動くことができない状態でした。それで、四人の男が彼を運んできました。この場面は単なる出来事ではなく、人間の状態を象徴的に示している場面でもあります。聖書は人間を単に弱い存在として説明するのではありません。自ら神様のもとへ行くことのない存在であると語っています。この人間の状態を全的堕落と言えます。すなわち、人間は罪によって完全に堕落しており、自分の力では神様に近づくことができない状態 を指します。
もう一度1節と2節を見てください。イエス様がカファルナウムの家におられるという噂が広まると、多くの人々が集まって来ました。家の中も戸口の前までもいっぱいになりました。どうしてそんなに多くの人々が集まっていたのでしょうか。2節の後半部分を見ると、[イエスが御言葉を語っておられる]と書いてあります。何を語っておられるのでしょうか。御言葉の重要性を教えておられたでしょう。神様は奇跡と感情ではなく、御言葉を通してご自分を啓示され、その御言葉によって人を生かされ、救われます。私たちは神様の御言葉を一番大事にし、信じています。
そのような状況の中で、四人の人が中風の人を連れて来ます。しかし、人があまりにも多くて中に入ることができません。しかし、彼らはここであきらめません。屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をイエス様の前につり降ろしました。この場面は単に熱心さを示しているのではなく、イエス様に対する信頼と信仰を示しています。5節を見ると、イエス様は[その人たちの信仰を見て、]と書いてあります。ここから私たちが分かることは、信仰とは単なる感情や考えではなく、実際の行動として現れる神様に対する意志と信頼であるということです。
続けて5節を見ますと、イエス様は中風の人に初めてこう言われます。[子よ、あなたの罪は赦される] この言葉は、その場に集まっていたすべての人々の期待を完全に打ち砕くものでした。なぜでしょうか。すべての人々は、イエス様がその中風の人の病気を完全に癒やされることを期待していたからです。しかし、イエス様は病気ではなく、罪についてまず語られました。
ここで私たちは非常に重要な真理に出会うことになります。イエス様は人間の最も根本的な問題を正確に知っておられました。人間の問題は、単に肉体の病気や環境ではなく、神様との関係が断たれた状態、すなわち罪です。この罪は、単にいくつかの悪い行いを意味するものではありません。神様を離れて自己中心的に生きる存在の状態を意味します。人間は単に罪を犯す存在ではなく、罪の下にある存在だと教えています。ですから、自分でこの問題を解決することはできません。どんな善行や努力によっても解決されません。それゆえに、イエス様は病気を癒やす前に、まず罪を赦されます。これは単なる順序の問題ではなく、救いの本質を示しているのです。イエス様は私たちの人生を少し良くしてくださる方ではなく、私たちの存在の状態を根本的に変えてくださる方です。
この時、律法学者たちが心の中で反応します。[この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。] この言葉は神学的には正しいものです。罪を赦す権威は神様にのみあるからです。しかし、彼らは決定的に一つのことを見落としています。今、彼らの前におられるイエス様こそが、その神様であるという事実です。イエス様は彼らの考えを知っておられ、言われます。9節を見てください。[中風の人に「あなたの罪を赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいか。] 人間の立場から見ると、どちらも不可能なことです。しかし、イエス様は続けて言われます。10節です。[人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。]
そして、中風の人に言われました。[私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。] すると、その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行きました。この場面は単なる奇跡ではありません。見えない罪の赦しの権威を、目に見える出来事を通して確証されたのです。言い換えれば、イエス様は単なる治療者ではなく、罪を赦す神様の御子であることを明らかにされたのです。
今、この場に初めて来られた方々や、久しぶりに来られた方々はいらっしゃいませんか。私が皆様にお伝えしたいことは、今、私たちには、私たちが抱えている問題よりもさらに深い問題があるということです。それは神様との関係の問題、すなわち罪の問題です。そして同時に重要な事実は、イエス様だけがその問題を解決することができるということです。イエス様は単に私たちの必要を満たしてくださる方ではなく、私たちの人生全体を治められる主権者であられます。また、長年教会に通ってこられたにもかかわらず、まだ信仰の確信が弱い方がおられるかもしれません。もし信仰が依然として問題解決の手段にとどまっているなら、私たちは今日の御言葉の前で再び立ち返らなければなりません。主の御言葉が私たちを完全に新しくしてくださることを、私たちは信じなければなりません。聖書は明確に語っています。救いは人間の決心や努力から始まるのではありません。神様がまず私たちを訪れ、恵みによって罪を赦し、キリストを通して新しい命を与えてくださいます。信仰はその恵みを受け入れる通路です。
今日の御言葉は、私たちに一つのことをはっきりと示しています。人々は病気を癒されるめにイエス様のもとに来ましたが、イエス様は罪を解決するために働かれました。つまり、イエス様は単に人間が直面する現実の問題だけを解決するために来られたのではありません。それ以上に根本的な問題である、私たちのすべての罪を解決し、私たちを救ってくださる救い主として来られたという事実です。イエス様は今も同じように語っておられます。[あなたの罪は赦される]
この御言葉を信じて受け入れることが信仰の始まりであり、そのとき初めて私たちの人生は根本的に新しくされ始めます。
