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2026年05月10日「預言者の怒りと救いの希望」

預言者の怒りと救いの希望

日付
説教
千禎鎬 牧師
聖書
ヨナ書 4章1節~11節

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨナ書 4章1節~11節

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今日の箇所は、激しく怒るヨナと、それに向き合われる神様の御言葉、そして救いの恵みへと導かれる結末の物語です。
魚の腹の中で三日間過ごした後、ヨナは神様の恵みによって再び陸に戻されました。そして二度目に聞こえてきた神様の御言葉には、従順な心で従い、ニネベへ向かいました。ニネベは三日かけて巡らなければならないほど大きな町でした。しかしヨナは、一日だけ町を歩き回りました。ヨナには、まだ神様の言葉を本気で伝えようという思いが十分にはなかったのです。そこで彼は一日だけ、
「あと四十日すれば、ニネベは滅びる」と宣べ伝えました。ところが、どういうことでしょうか。ニネベの人々は神様の言葉を聞くと、すぐに悔い改めました。王をはじめ、すべての人々が断食して、神様の前で悔い改めたのです。そして神様は、そのすべての姿をご覧になり、彼らに下そうとしていた災いを思い直されました。しかしヨナは、自分の思いとはまったく違う方向へ事が進んでいくことに激しく怒りました。ついこの前、自分自身が魚の腹の中で悔い改め、神様の恵みによって命を救われたことさえ忘れてしまっていたのです。
今日の箇所は、怒りに満ちたヨナと、そのヨナに向き合われる神様、そして救いの希望に関する結末部分の物語です。

1、2節をもう一度見てください。
神様がニネベに災いを下されなかったのを見て、ヨナは激しく怒りました。二つの感情が表れています。[大いに不満であり、怒った]ということです。注釈によりますと、ヨナの二つの感情を一つにまとめてみると、激しい不快感を抑えることができず、次第に怒りが込み上げ、全身が熱くなるほど感情が爆発し、粉々に砕け散ってしまったという意味だそうです。ヨナは、抑えきれないほどねじれた感情によって、理性的に考えることが難しいほど、心が完全に壊れてしまっていました。
ヨナがここまで激しく怒った理由は、ヨナ自身が徹底した民族主義者だったからです。選ばれた民族であるという優越意識が、彼の思いと心を支配していたため、すべての国々、すべての王たち、そして全人類を治められる神様の統治と摂理を受け入れることができなかったのです。ヨナは神様に用いられる預言者でしたが、イスラエル人としての彼の考え方は、狭い視野にとどまっていました。
2節を見ると、ヨナは神様に祈り、なぜ自分がタルシシュに向かって逃げようとしたのかを訴えています。2節の後半部分を見ると、[あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です]と書いてあります。これは本来なら、神様を賛美し、その御名をあがめるべき場面ですが、今のヨナは、神様が憐れみを施されたことに対して不満を抱いているのです。
私たちの中にも、ヨナのような感情があるのではないでしょうか。
「神様はなぜ、悪い人たちをそのままにしておられるのだろうか。神様はなぜ、悪を行う者たちがより豊かに暮らせるように放っておかれるのだろうか。私を苦しめ、偽りを行うあの人たちを、なぜ裁かれないのだろうか。私はやるべきことをやっているつもりなのに、どうして自分の姿や置かれている状況は、いつもこんな有様なのだろうか。」私たちは生きていく中で、このような神様に対する不満や恨みの感情が数え切れないほど湧き上がってきます。
ヨナは、神様が恵み深く、憐れみに満ち、怒るのに遅いお方であるということを、誰よりもよく知っていました。しかし、彼は神様の恵みと憐れみと忍耐がヨナ自身とイスラエルの民に対してだけ適用されるべきものだと考えていたのです。自分が受けている神様の恩恵と愛は当然のものと考えていましたが、他の国や他の民族に対して神様が働かれることは、当然ではないと思っていたのです。
私たちも同じです。神様が与えてくださったものには目を向けず、ないもの、不足しているもの、そして他人が自分より多く持っているものばかりを考えてしまいます。他人より自分のほうが少ししか持っていないと思い込み、自尊心を失ってしまいます。ヨナのように、自分自身に与えられた恵みを忘れ、他人ばかりを意識して比べるようになると、私たちは偽りと悪の落とし穴に陥ってしまいます。私たちは、自分を他人と比べる必要はありません。むしろ今の私は、誰よりも先に神様の恵みと憐れみを受けた者であるという事実を覚えながら生きるべきなのです。恵みを覚え、感謝しながら生きる人こそ、信仰の成熟した人であると言えるでしょう。
3節はヨナの最後の祈りです。[主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。] この祈りは、子どものように駄々をこねる甘え程度ではなく、神様からご覧になると、一線を越えた行動のように見えす。これに対して神様はこのように言われます。4節です。[お前は怒るが、それは正しいことか。] ヨナが命をかけて願いましたが、神様は、怒りに燃えるヨナの心を、威厳に満ちた御言葉によって一気に静められました。しかし、神様は彼を懲戒されませんでした。神様はなおも、ヨナに対して憐れみ深く、怒るのに遅いお方として、共にいてくださっていることが分かります。神様は、罪に満ちたニネベの数十万人を悔い改めへ導かれるだけでなく、神様の御心を理解できない一人の預言者をも悔い改めへと導かれるのです。すべての人に、神様の憐れみと寛容、そして愛の原則を適用してくださいました。神様は、乱れてしまったヨナの心を悟らせるために、一つの方法を用いられたのです。
5-7節を見ると、ヨナは小屋を建て、都に何が起こるかを見届けようとしました。ヨナは、なぜこのようにしていたのでしょうか。ヨナは、自分の命を懸けるほどの思いで神様に祈ったので、神様がその祈りを聞いてくださり、必ずニネベを裁かれると信じていたからです。しかし、神様のご計画はヨナの考えとは全く異なっていました。神様は、ヨナを少しずつ導いていかれました。神様はヨナの苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられました。ヨナは大いに喜びました。神様に対して嫌がり怒っている自分にも、このように変わることのない憐れみと慈しみの御手が及んでいることに気づいていたなら、今すぐにでも心を改めて神様に立ち返るべきでした。
しかしヨナは、日差しが遮られたことだけを喜ぶばかりで、心は依然として動きませんでした。おそらく、このとうごまがニネベの人々にも与えられていたなら、ヨナは再びそれを嫌い、さらに激しく怒って、神様に面と向かって不満をぶつけていたことでしょう。昼の強い日差しを遮っていたとうごまは、翌朝になると虫に食われてしまい、なくなってしまいました。これもまた、神様が働かれる過程の一つでした。

8-9節を見ると、日が昇ると、神様は今度は焼けつくような東風に吹き付けるように命じられます。太陽もヨナの頭の上に照り付けたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言いました。[生きているよりも、死ぬ方がましです。]
すると神様はこのように言われます。[お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。] ヨナは言いました。[もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。] ヨナは、ひねくれてねじれた心をどうしても解こうとはしませんでした。
とうごまの出来事は、神様の働きがいかに細やかであるかを示す出来事でした。神様は、とうごまや虫のようなとても小さなものを通してさえも、神様の恵みと憐れみ、そして完全な御心を成し遂げていかれるお方です。しかし私たち人間は、神様のこの驚くべき導きと恵みに気づくことができず、ヨナのようにまず怒りを爆発させ、「生きているよりも、死ぬ方がましだ」とためらいなく口にしながら、尊い命を軽んじてしまう時があります。
神様は、とうごまを備えられた御心が何であるかを、ご自身で明らかにしてくださいます。10-11節をご一緒に読みましょうか。
[すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。」それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。]
ここまで言われ、ヨナ書の物語は終わります。結末はあえて開かれたまま残されています。ヨナは当然、悔い改めたことでしょうし、神様に用いられ続ける預言者としての人生を歩んだのではないかと推測されます。神様に用いられる預言者でさえ、このように大きな弱さを持っているのです。

ヨナの物語は、神様が私たち一人ひとりに与えてくださった恵みがいかに大きく驚くべきものであるかに気づかせてくださると同時に、私たちすべてがその恵みを恵みとして受け止め、感謝しながら生きるべきであること、さらにその恵みがいっそう豊かなものとなるように、自分と関わるすべての人に恵みを流していく祝福の通路となるべきであるという教訓を与えています。
ヨナ書を深く黙想すると、神様は私たちと常に共にいてくださるお方であることが分かります。神様はヨナを召し、使命を与えられたときにも、ヨナが御言葉に従わず逃げたときにも、共にいてくださいました。また、魚の腹の中で死にかけていたときにも、ニネベで十分に御言葉を語らなかったときにも、神様に対して不快感を抱き怒っていたときにも、「生きているよりも、死ぬ方がましです」と願ったときにも、神様は共におられました。そして、とうごまの教訓を見聞きしてもなお心を翻さないときでさえ、神様は依然としてヨナと共におられ、祈りを聞き、彼を神様のところへと導かれました。神様は、私たちの弱さを憐れみ、変わることなく共にいてくださる、まことに良いお方です。私たちはヨナのように怒りの中にとどまるのではなく、神様の憐れみをつかみ、十字架の恵みを受け入れ、すべての魂に対する救いの心を抱くべきです。今からでも悔い改めてイエス様のもとに来るなら、神様はどのような罪でも赦し、永遠のいのちを与えてくださいます。これが恵みであり、救いの希望です。

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