二度目の召しと悔い改めの恵み
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 ヨナ書 3章1節~10節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨナ書 3章1節~10節
ルカによる福音書11章29-30節を見ますと、イエス様はヨナのしるしについて語られながら、「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなった」と言われました。これは、ヨナが伝えたメッセージを聞いてニネベの人々が自分たちの行いを振り返り、悔い改めた出来事が、決して作り話ではなく、実際の歴史の中で起こった出来事であることを示しています。ヨナ書3章は、まさにその悔い改めの出来事を、私たちに生き生きと証ししています。ニネベに行けという神の御言葉に従わず、タルシシュへ逃れようとした預言者ヨナは、ついに海に投げ込まれ、神様が備えられた魚の腹の中で、三日間過ごすことになりました。その時間は、単なる刑罰の時ではありませんでした。その魚の腹の中は、ヨナに対する神様の愛と恵みであり、ヨナを預言者らしくするための訓練所でした。そしてその時間は、ヨナを再び立ち上がらせる神様の恵みの時でもありました。ヨナ書2章11節を見ると、神様は定められた時になると、魚に命じてヨナを陸地に吐き出させました。そして今日の御言葉を見ると、神様は彼に再び語られました。彼をもう一度、使命の場へと立ち返らせたのです。
今日の箇所1節には、非常に重要な御言葉が記されています。[主の言葉が再びヨナに臨んだ。] 神様がヨナに二度目に語られたという事実は、私たちに大きな恵みを示しています。ヨナは神様の命令を拒んだ人でした。それにもかかわらず、神様は彼を見捨てることなく、再び召されたのです。神様は、いくらでも他の人を立てて用いることができるお方です。しかし神様は、同じヨナを再び召されました。これこそが神様の愛であり、恵みです。
実は、私たちが今この場で神様の御言葉を聞いていることも神様の繰り返しの召しがあったからこそ可能になったことです。もし神様が一度しか呼ばれなかったとしたら、私たちはすでに離れてしまっていたかもしれません。しかし神様は諦めることなく、絶えず私たちを呼び続けておられる方です。また、神様がヨナを二度目に召されたことは、ニネベの人々にとっても大きな恵みでした。もしヨナが最後までニネベに行かず、神様が彼らをそのままにしておられたなら、ニネベは滅びの道へ進むほかありませんでした。しかし神様はヨナを再び遣わすことによって、ニネベにも悔い改めの機会を与えられたのです。
この場面は、神様のまなざしが決してイスラエルだけにとどまっていないことをはっきりと示しています。イスラエルの民は、自分たちだけが神様に選ばれた民であると考えていました。しかし神様は、アブラハムを召された時から「地のすべての民族は、あなたによって祝福される」と語られました。神様の関心は、いつも全世界に向けられていたのです。出エジプトの時にも、多くの雑多な民が共に出て来て、彼らは神様を信じる信仰によってイスラエルの共同体に入りました。イスラエルは単なる血縁の共同体ではなく、信仰の共同体でした。ラハブのような異邦の女性も、神様を信じることによって共同体の中に入り、サレプタのやもめもまた神様の助けを経験しました。このように、神様は常に異邦人にも救いの道を開いておられました。ニネベもまた例外ではありませんでした。
2節を見てください。神様はヨナに再び命じられます。[さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。] この御言葉は、最初に与えられた命令と同じです。まるでヨナが一度も不従順でなかったかのように、同じ使命をお与えになります。しかし、ヨナの心は決して以前と同じではなかったでしょう。2節で重要な単語は、‛わたし’です。ヨナは自分の考えや判断を伝える人ではなく、神様が命じられた御言葉だけを伝えなければならない人でした。預言者は自分の意見ではなく、神様の御言葉を伝える人です。そして神様の命令に対して最初の反応は、[立ち上がる]ことです。「立ち上がる」というのは単なる動作ではなく、意志的な決断を意味します。私たちが朝起きるために布団を払いのけるように、信仰の従順もまた、自分の本能を手放し、決断することから始まります。だからこそ、立ち上がることとは従順の始まりなのです。
3節を見てください。[ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。] と書いてあります。実は、ニネベは人口もとても多い大きな都市でした。しかし、4節を見るとヨナは、その大きな都を一日分だけの距離を歩きながら叫びました。これは、ヨナの心の状態をよく表しています。彼は従順ではありましたが、完全な従順ではありませんでした。ニネベが悔い改めずに滅びることを願う思いが、なお心の中に残っていたのです。それにもかかわらず、ヨナが伝えたメッセージは非常に力強いものでした。4節の後半部分です。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」この宣言は、ニネベの人々にとって非常に衝撃的な宣言であったでしょう。まるで死刑宣告を受けた人のように、彼らは切迫した状況に置かれたのです。しかし驚くべきことに、ニネベの人々はこのメッセージを聞くと、すぐに反応しました。
5節を見ると、彼らは神様を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまといました。断食というのは、命をかけることで、自分の命が神様の御手にあるということを認めることです。身に粗布をまとうというのは、災難と悲しみの印として、彼らは、自分たちの置かれている状況が非常に深刻であることに気づいたのです。このことがニネベの王様に伝えられました。すると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座りました。また布告を出し、ニネベに断食を命じました。7節の真ん中からこのように書いてあります。[人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁じる] これは単なる外面的な行動ではなく、人生の方向を変える真の悔い改めでした。
9節で王は、[神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。] と言います。これは確信の表現ではなく、へりくだった期待です。何一つ保証することはできませんが、神様の憐れみを願う心で悔い改めへと進んだのです。結局、10節を見ると、神様は彼らの悔い改めをご覧になり、災いを下されませんでした。神様は裁きを喜ばれる方ではなく、人が立ち返って生きることを喜ばれる方です。ニネベの悔い改めは、神様の憐れみを示す出来事でした。
預言者ヨナは、二度の召しを受けた特別な恵みを受けた人でした。彼は結局、ニネベに向かって行きましたが、完全な従順ではありませんでした。それにもかかわらず、神様は彼を用いて、驚くべき悔い改めの御業を成し遂げられました。
イスラエルの人々が贖罪の日にヨナ書を読んでいた理由も、まさにこの悔い改めの意味を思い起こすためでした。ヨナ書は、ヨナ自身の失敗と弱さがそのまま記された書です。彼は、自分が最初から従順でなかったことや、十字架を負おうとしなかった姿を正直に示しました。そのような意味で、ヨナ書はヨナ自身の悔い改めの記録、懺悔録とも言えるものです。
皆様。
神様は今も私たちを呼んでおられます。私たちは時に逃げ、時に従うことができません。しかし神様は私たちを見捨てることなく、再び呼んでくださいます。これこそが、二度目の召しの恵みです。神様が私たちに与えてくださった二度目の機会に感謝しつつ、それぞれに与えられた“ニネベ”に向かって進む人生を生きるように願います。神様が喜ばれると信じます。
