救いは主にこそある
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 ヨナ書 2章1節~11節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨナ書 2章1節~11節
人は人生のどん底に立たされた時、二つの選択の前に立つと言われています。一つは、さらに深く絶望の中へ落ちていくことです。極端的に自殺をしてしまいます。ニュースを見ると、このような話が多く出ます。もう一つは、神様に向かって叫び求めながら、再び天を見上げることです。これこそ、信者である私たちの姿勢です。今日の御言葉に登場するヨナは、そのどん底を越えて、海の深いところまで落ちた人でした。激しい嵐と波、人々の手、また大きな魚に至るまで、あらゆる状況が一つのメッセージを伝えていました。“「もう逃げるのは終わりだ。神様のもとへ立ち帰りなさい”というメッセージです。
ヨナ書2章は、まさにその絶望の深いところから始まった祈りが、どのように希望の告白へと変えられていくのかを示しています。ヨナは神様の命令に従わず、逃げました。しかし、神様をさけようとすればするほど、状況はますます悪くなりました。結局、激しい嵐の中でヨナは自ら海に投げ込まれることを選びます。しかし驚くべきことに、神様はその状況の中にあっても、救いの道を備えておられました。大きな魚を通してヨナを救われたのです。このようなヨナの状況は、外から見ると裁きのように見えますが、実は神様の恵みでした。神様は時に私たちの道をふさぐことによって、私たちを生かしてくださいます。神様の元へと再び導いてくださるのです。
ヨナ書2章は、詩編のように嘆願詩の形式となっています。
2‐3節を見てください。[ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、私が叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、私の声を聞いてくださった] ヨナの叫びと神様の答えについて書かれています。4-7節を見ると、墜落の深さについて記されています。“深い海、巻き込み、波、大水、深淵に吞み込まれ、水草が頭に絡みつく、山々の基まで、地の底まで沈み”
しかし、転換点が記されています。8節です。[息絶えようとする時、私は主の御名を唱えた。私の祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した]
9-10節を見ると、ヨナの誓いと感謝が記されています。[偽りの神々に従う者たちが、忠節を捨て去ろうとも私は感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある]
11節を見てください。ヨナの解放について書かれています。[主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した]
この歩みは、沈み込み → 想起 → 告白 → 従順という道です。救いの道もこの順序を通っていきます。
もう一度2節を見てください。魚の腹の中からヨナは神様に祈りを始めます。そして、3節を見ると、彼は苦難の中で神様に叫び求め、神様が自分の声を聞いてくださったと告白します。ここで重要なのは、場所ではありません。祈りの方向です。どんなに深い場所であっても、神様に向かって叫び求めるなら、そこが祈りの場となります。魚の腹の中でも、深い海の中でも、恵みの道は開かれます。重要なのは、誰に向かって口を開くかということです。すなわち、神様に叫び求めることです。
4節を見てください。[あなたは、私を深い海に投げ込まれた]と書かれています。
船からヨナを海に投げ込んだのは船乗りたちですが、ヨナは「あなた」すなわち、“主である神様”だと告白します。人を通して働く主権者である神様を見る目が開かれました。これは信仰における重要な変化です。信仰の成熟は、偶然を摂理として受け入れることから始まります。ヨナは表に見える状況の背後で働いておられる神様の御手を見始めたのです。
7節を見てください。[わたしは山々の基まで、地の底まで沈み。地は私の上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ。あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった] ヨナは自分が完全に終わったと思いました。まるで固く閉ざされた場所に閉じ込められたようでした。しかし、まさにその場所で神様は彼を引き上げられました。最も深い絶望の場所であっても、神様の御手が届かないところではありません。
8節を見てください。ヨナはこのように告白します。[息絶えようとする時、私は主の御名を唱えた。私の祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した]
ヨナの心が変わった瞬間は、「神様を思い起こしたとき」でした。信仰は状況が変わることで生まれるのではなく、思いが神様に立ち返る時に始まります。絶望の中にあっても神様を覚えることが、回復の始まりです。
またヨナは、偶像を捨てなければならないとことに気づきます。9節です。
[偽りの神々に従う者たちが、忠節を捨て去ろうとも] ここで言う偶像とは、単に目に見えるものではなく、「自分が自分の人生の主人である」という考えであるかもしれません。このような考えにとらわれていると、神様の恵みを逃してしまいます。逆に、それを手放す時、神様の愛が私たちを捕らえてくださいます。
10節を見てください。 [私は感謝の声をあげ。いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある] ヨナはまだ、完全に救われた状況ではありませんでしたが、すでに感謝の告白を捧げました。これが信仰です。状況は変わりませんでしたが、先に神様に感謝すること、これこそ、成熟した信仰の姿です。そして彼は、このように宣言します。[救いは、主にこそある] この告白は、救いの所有権を宣言する御言葉です。人間は救いを与える主体ではなく、受け取る器です。イエス様の十字架の死と復活を通して成し遂げられた救いは、無償でありながら、尊い代価によって与えられた贈り物です。すなわち、救いの主体は神様であるということです。私たちは救いを作り出す存在ではなく、神様が与えてくださる救いを受け取る存在です。[救いは、主にこそある]という御言葉は、ヨナ書全体はもちろん、聖書全体の核心的な真理を表しています。救いは人間の努力や決断によるものではありません。救いはすべて神様に属しています。ヨナは、自分が祈ったから救われたとも、自分の悔い改めによって救われたとも言いません。ただ神様が救いの主体であることを認めます。人間は完全に堕落しており、自らを救うことができず、神様の主権的な選びと恵みによって救われます。そしてその恵みは、人間の意志によって拒むことのできない力として働かれます。ヨナの救いは彼の努力の結果ではなく、神様の一方的な恵みの結果です。
11節を見てください。ついに神様が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出します。神様の一言の言葉が、状況を完全に変えてしまいます。神様が語られる時、自然も環境も、私たちの人生も動きます。神様は自然界だけでなく、すべての被造物を完全に統治しておられます。海も、嵐も、魚も神様の命令に従います。ヨナの救いもまた、彼の行いの結果ではなく、神様の御言葉によって完成されるのです。
ヨナ書2章は、私たちに明確なメッセージを伝えています。人間が最も深い絶望の場所へと落ちていく時、その場所こそが神様の恵みが始まる場所となり得るということです。私たちの人生にも、まるで魚の腹の中のような時があります。失敗と苦しみ、そして何もできない無力さの中で、やっと神様を仰ぎ見るようになります。しかしその時でさえ、私たちは誤解してはなりません。私たちが神様を求めたから救いが始まったのではなく、神様が私たちを先に捕らえてくださったからこそ、私たちは神様を求めるようになったのです。私たちの告白はヨナの告白と同じでなければなりません。「救いは、主にこそある」という告白です。この告白が単なる言葉ではなく、私たちの人生全体を支配する信仰の中心となることを願います。
このヨナの話はここで終わりません。イエス様は、ヨナの物語を通してご自分の死と復活について説明されました。ヨナが深い場所から再び生かされたように、イエス様も死に打ち勝って復活されました。ヨナは不従順によって下っていきましたが、イエス様は従順によって下って来られました。ヨナは自分罪のために苦難を受けましたが、イエス様は私たちの罪を代わりに負われました。ですから、ヨナの告白はイエス様のうちにおいて完全に成就します。「救いは主にこそある」というその救いは、イエス・キリストを通して完成されました。
私たちの人生が、深い暗闇の中にあるように感じられるなら、その場で神様に叫び求めましょう。神様はその深いところであっても、私たちの祈りの声を聞いてくださいます。もし神様を信じていながらも遠ざかってしまっているなら、再び立ち返ればよいのです。神様は立ち返る人を見捨てられません。すでに信仰を守っているなら、今度は告白で終わらず、生活へと歩み出すべきです。従順に生きることが信仰の完成です。大切なのはこれです。どのような状況の中でも神様に向かって叫び求めること、そして告白することです。「救いは、主にこそある」
お祈りを致します。
