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2026年04月19日「愛の激しい嵐」

愛の激しい嵐

日付
説教
千禎鎬 牧師
聖書
ヨナ書 1章4節~16節

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨナ書 1章4節~16節

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普通、親は子どもが間違った道を進もうとすると、そのまま放置しておきません。時には、体罰を与え、涙を流させてでも、その道をやめさせようとします。なぜなら、子どもを愛するからです。このように、神様は、私たちが間違った道に進むとき、それを正すために懲戒や懲らしめを用いられます。懲戒は神様の愛のしるしであり、単なる処罰ではなく、私たちを回復させようとする神様の愛であり、神様の摂理であります。このように、まさにヨナが出会った嵐もそうでした。
今日の御言葉は、神様が逃亡するヨナにどのように向き合われたかを、生き生きと描いています。ヨナは、神様の命令に従わず、タルシシュに向かいましたが、神様は彼をあきらめられませんでした。神様は激しい嵐を用いられ、ヨナを捕らえ、最終的に再び使命へと導かれました。神様の主権と回復の恵みを現してくださったのです。

4節を見てください。[主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。] ヨナは、神様の命令に従わず、自分の道を進もうとしました。しかし、神様はヨナが神様から離れないように導かれました。ヨナが乗った船は激しい嵐に出会いました。これは偶然に起こった自然の現象ではなく、神様ご自身が起こされたものでした。
聖書を読むと、神様はしばしば自然を用いられ、ご自身の御心を表されます。イスラエルの民がエジプトから出た時も、神様は様々な災いを通してエジプトを裁かれ、荒れ野でイスラエルの民が神様に従わなかった時、炎の蛇を送って彼らを懲らしめられました。神様は、ご自身がお造りになった自然、天地万物を通して人間の高慢を打ち砕き、ご自分の御心を成し遂げられます。ヨナが神様から逃れようとした時も、神様は自然を用いられ、彼を止められました。
私たちの人生の中にも激しい嵐が訪れる時があります。私たちはしばしば、神様の御心を知りながらもそれから逃れようとし、自分たちの道を歩もうとします。しかし、神様は私たちを愛しておられるので、私たちをそのままにしておかれません。神様は、時に私たちの人生に激しい嵐を起こされ、私たちが神様から離れないように導いてくださいます。この激しい嵐は、神様の裁きではなく、私たちを再び神様のもとに帰らせる神様の愛の導きです。

5節を見てください。[船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。] ここで興味深いのは、船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげましたが、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいたということです。預言者であるヨナは、誰よりも神様を知らなければならず、また神様の御心を悟らなければならない人でした。しかし、彼は神様から離れ、逃亡することに集中しすぎて、周りで起こっていることにはまったく関心がありませんでした。一方で、神様を信じない異邦人の船乗りたちは、恐怖に陥り、自分の神に助けを求めて叫びをあげました。このような姿は、今日の教会と聖徒の姿を反映しているように思います。私たちは神様を信じているにもかかわらず、時には神様の御声がまったく聞こえず、霊的にぐっすりと寝込んでいる時があります。祈らなければならないことが多くありながらも祈らず、神様に向かう行動を取らないことが多いのです。私たちの教会の近くにある善通寺や周りの神社に行くと、多くの人が自分たちの問題や願いのために一生懸命祈り、参拝しています。また様々な宗教的な行為が行われているのが見られます。例えば、[四国八十八箇所巡り]などです。ある時は、彼らの熱心さから学ばなければならないこともあります。もちろん、それをそのまま行おうということではありません。誤解しないでください。神様に向かう私たち聖徒の姿勢について言っているのです。今日の御言葉に出てくる船乗りたちの姿を通して、私たちの信仰の姿を一度振り返ってみましょう。
6節を見てください。船長がヨナを起こして語りかけます。[寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。]
神様を知らない船長がヨナに祈るように促す姿はアイロニーです。私たちは、神様の人として世の中で光と塩の役割を果たさなければなりません。しかし、しばしば神様の人とは全く違う姿を見せてしまう時、世の人々から神様を信じる人のように生きなさいと言われることがあります。恥ずかしいことですが、私も学生時代にイエス様を信じない親戚に何度もそのように言われた経験があります。皆様はいかがでしょうか。

船乗りたちは、激しい嵐を静めるためにヨナに尋ねます。11節です。[あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。] すると、ヨナの反応はどうでしょうか。
ヨナは、ついに自分の過ちを認めて答えます。12節です。[私を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。] ヨナは神様に従わなかったことを認め、神様の裁きを受けることを決心しました。彼は、自分が犠牲になることで、船に乗っていた人々が救われることを悟ったのです。これは単なる敗北や諦めではなく、神様のもとに立ち返るための決断でした。

私たちが神様の御前で心から悔い改める時、神様は私たちを再び回復してくださいます。神様は単にヨナを海に投げ込ませただけではなく、彼を再び救いの道に導いてくださったのです。神様は私たちが罪を悟り、再び主のもとに帰ることを願っておられます。私たちが悔い改めるならば、神様は私たちの人生を回復してくださり、再び使命者として用いてくださいます。

皆様。
船乗りたちに自分を海に投げ込むように言ったヨナの姿は、ヨナ自身を超え、より大いなるお方を示しています。ヨナは神様に従わず海に投げ込まれましたが、主イエス・キリストは完全な従順によって十字架につけられました。ヨナは自分の罪のために死の底に至りましたが、イエス様は私たちの罪のために十字架の上で死なれました。ヨナが三日三晩海の中にいた出来事は、やがて来られるイエス・キリストの死と復活を前もって示す出来事となっています。今日の御言葉は、単なる教訓ではなく、福音を伝えているのです。

ヨナが海に投げ込まれた時、激しい嵐は穏やかになりました。そのとき、人々はどのように反応したでしょうか。16節を見てください。[人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。] と書いてあります。この場面は、神の力が単にヨナだけに限られたものではなく、異邦人にまで影響を及ぼしたことを示しています。神様は、ヨナを通してニネベだけではなく、激しい嵐の中にいた船乗りたちにもご自身を知らせてくださいました。そして次に学びますが、2章1節を見ると、神様はヨナを魚の腹の中へと導かれます。魚の腹は、ヨナにとって懲罰の場所ではなく、回復の場所となります。神様はヨナを見捨てることなく、むしろ彼を再び遣わすために備えられます。
神様は、私たちが間違った道を歩むとき、懲らしめを通して私たちを目覚めさせますが、その目的は決して裁きではなく、回復のためです。ヨナは神様の御心を拒んで逃げ出しましたが、神様は彼を見捨てられませんでした。神様は激しい嵐を起こし、ヨナを魚の腹の中へと導き、ついには再び使命の場へと立ち返らせてくださいました。この過程の中で、私たちは神様の驚くべき愛と忍耐を見いだすことができます。
皆様。
私たちの人生にもヨナのような瞬間があります。時には神様の御心が重く感じられ、自分の計画と合わないと思うことがあります。しかし、神様は私たちがご自分から逃れようとすることを望んでおられません。時には激しい嵐のような状況を通してでも、私たちに向けられた救いのご計画を成し遂げられます。神様は私たちを懲らしめられますが、その懲らしめは私たちの霊的成長のためのものです。神様は懲らしめを通して、私たちがより神様に頼ることを願っておられます。ですから、私たちは神様の懲らしめを恐れるのではなく、それを通して神様により近づいていかなければなりません。神様が送られた嵐の中で、私たちは不平不満を言うのではなく、神様の御心を求め、悔い改めの心をもって神様に近づくべきです。そうすれば、神様は私たちを再び立ち上がらせてくださり、使命の道へと導いてくださいます。

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