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2026年04月12日「逃げ出した預言者」

逃げ出した預言者

日付
説教
千禎鎬 牧師
聖書
ヨナ書 1章1節~3節

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨナ書 1章1節~3節

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今日からヨナ書を通して神様の恵みを分かち合いたいと思います。ヨナ書は短い書物ですが、とても興味深い内容が含まれています。また、物語形式で書かれている書物であり、小さな子供から大人まで誰にでも読みやすい書物です。ヨナ書の中心的な人物はヨナという預言者です。彼は、自分の内面で起こる様々な葛藤と変化を隠さず、正直に表し、自分の利己中心的な態度と神様の限りない愛を対比して見せてくれます。

ヨナ書には、大きく二つの重要な主題が表されています。一つ目は「神様の正義」です。ヨナは、悪人は必ず裁かれるべきであり、正しい人は必ず祝福されるべきだと考えていました。それゆえ、ニネベを救おうとされた神様のご計画を不公平だと思ったのかもしれません。私たち人間もそのように思いがちです。
しかし、ヨナ書が強調しているもう一つの主題は、「神様の愛と赦し」です。神様は単に正義のお方として裁きを行われるだけのお方ではありません。それ以上に、大きな愛と赦しを与えてくださるお方です。そのために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架の御業を成し遂げられました。もし神様が人間のように狭い心で裁きを行われるならば、ここにいる私たちはもちろん、この世には救われる人は一人もいないでしょう。神様の限りない愛と赦しは、人間の利己中心的な正義を超えるのです。
今日から学ぶヨナ書を通して、このような神様を心から悟り、また神様に出会うことができるよう願います。

皆様は、預言者ヨナを思い浮かべると、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。
彼は、一度の説教を通して都市全体を変えた素晴らしい説教者であり、世界宣教のビジョンを示した人物です。今の言葉で言えば、宣教師でもあります。余談ですが、宣教師の中にはヨナ書の影響を受けた人も少なくありません。また彼は、大きな魚に飲み込まれ、その腹の中で三日間過ごしながらも生き延びた奇跡を経験した人です。しかしヨナは、このような素晴らしい経験の前に、神様から逃れようとしてタルシシュに向かった人でした。今日の箇所3節を見ると、この事実が記されています。
預言者がどうやって神様の目を逃れて逃げることができるのでしょうか。しかし実際にヨナはそのようにしました。
私たちもしばしば、神様を信じていると言いながら逃げ出したい気持ちになる時がありますが、それは正しい選択ではありません。それにもかかわらず、預言者ヨナは神様から逃げてしまいました。
今日の説教題は「逃げ出した預言者」です。今日の箇所を通して、ヨナがどのような人物なのか、そしてなぜ神様の目を逃れて逃げようとしたのかを見ながら、恵みを分かち合いたいと思います。

それでは、神様から逃れようとしたヨナがどのような人なのか、もう少し具体的に考えてみましょう。
ある人は、ヨナを神様から逃げた人だと言い、彼の信仰はつまらないと思うかもしれません。本当にそうでしょうか。
1節を見てください。彼はアミタイの子であると書かれています。彼の父アミタイの名前の意味は「真実」です。聖書には彼の人生について詳しくは記されていませんが、その名前から考えると、彼は神様を恐れ敬う人であったと考えられます。
また彼は、自分の息子が神様の御言葉を宣べ伝える者となることを願い、「鳩」という意味を持つヨナという名前を付けました。推測してみると、ヨナの家庭は信仰の良い家庭であったかもしれません。
このような良い環境の中で育てられたヨナは、自然に良い信仰を受け継いだ人でした。
しかし、このような素晴らしい信仰を持っていたヨナでさえ、決定的な瞬間に神様の命令に従わず、神様から逃げてしまったのです。神様から逃れようとしてタルシシュに向かいました。どうしてこのようなことが起こり得るのでしょうか。
立派な信仰を持っている人であれば、どんな場合でも神様の御言葉に従うべきではないでしょうか。しかし、それができないのが私たち人間の現実です。

私たちはここで悟らなければならないことがあります。
どんなに立派な信仰を持っている人であっても、倒れてしまう時があるということです。イエス様の弟子たちを思い出してください。弟子たちは三年間イエス様から神様の御国と御言葉を教えられましたが、主が十字架につけられる時、皆逃げてしまいました。これが弱い体を持つ私たち人間の姿です。ですから、誰かの信仰が弱くなり神様から離れてしまう姿を見ても、簡単に裁いてはなりません。誰でも神様の助けがなければ倒れてしまうからです。そのような人を裁くよりも、むしろ再び神様のもとに帰るように切に祈るべきです。
またヨナはどのような人物でしょうか。御言葉をよく黙想すると、彼は神様と交わり、神様の御言葉を受けた預言者です。
彼は普段から神様の御声に耳を傾け、御言葉に従う人でした。1節をもう一度見てください。「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」。ヨナは神様の御言葉を受けた預言者でした。なぜ神様の御言葉がヨナに臨んだのでしょうか。当時のイスラエルは大いに繁栄しており、現代の言葉で言えば、経済、教育、文化など社会全体が豊かな時代でした。そのため、多くの知識や才能を持つ人がいたでしょう。しかし、そのような人たちではなく、なぜヨナに神様の御言葉が臨んだのでしょうか。それは、ヨナが日頃から神様の御言葉に近づき、それに従い、神様と共に歩む生活をしていたからです。
実際に列王記下14章25節にはこのように書かれています。「しかし、イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者アミタイの子を通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。」この御言葉を通して、ヨナが神様と深く交わり、御言葉を伝える忠実な預言者であったことが分かります。ヨナは決してつまらない人ではなく、むしろ霊的に優れた人でした。
それにもかかわらず、彼は神様から逃れようとし、タルシシュに向かいました。これこそ人間の弱さです。

それでは、ヨナはなぜ逃げたのでしょうか。その理由は、神様から与えられた御言葉が彼にとって非常に大きな負担であったからです。2節を見てください。
「さあ、大いなる都ニネベに行って、それに呼びかけよ。彼らの悪は私の前に届いている。」神様はヨナに、ニネベに行ってその悪を告げ知らせるよう命じられました。しかし、この命令には三つの負担がありました。
一つ目は、「行くこと」の負担です。ヨナ自身が直接ニネベに行かなければなりませんでした。原語やほかの日本語の聖書では「立って、大いなる都ニネベに行って」という意味が含まれており、自ら行動しなければならない使命でした。
二つ目は、ニネベという場所です。ニネベはイスラエルを苦しめた敵国の首都であり、ヨナにとって最も行きたくない場所でした。もし自分が最も嫌っている国に行って福音を伝えなさいと言われたら、大きな負担を感じるでしょう。
三つ目は、伝えるメッセージです。表面的には裁きのメッセージでしたが、実際には悔い改めによる救いの可能性が含まれていました。
ヨナはこれを知っていたため、最も大きな負担を感じました。もしニネベが悔い改めて赦されるならば、それはイスラエルにとって大きな脅威となる可能性があったからです。結局ヨナは、神様の御心よりも自分の民族や感情を優先しました。このような偏った愛が、彼の従順を妨げていたのです。

聖徒の皆様。
私たちはここで大切な教訓を得ることができます。どんなに信仰が強い人であっても、神様の御言葉に完全に従うことは難しいということです。特に御言葉が自分の考えと違い、心から受け入れられない時にはなおさらです。しかし、それでも御言葉を拒んで逃げてはいけません。神様の御言葉は時に理解できず、難しく感じることがあります。しかし、それが神様の御言葉であるならば、私たちは必ず従わなければなりません。そのようにする時、私たちは恥を受けることがなく、神様の栄光が私たちの人生を通して現されるでしょう。決して簡単な道ではありませんが、日々自分の信仰を省みながら、神様の愛を第一にし、その御心を拒まない歩みを共にしていきましょう。

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