キリストが復活しなかったのなら
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 15章12節~34節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 15章12節~34節
今まで学んでことを少し復習してみましょう。コリント教会は、豊かな賜物を与えられた教会でした。また知識も豊富な教会でした。さらに、それらを用いて多くの奉仕もした教会でした。しかし、残念ながらコリント教会の聖徒たちは、そのような賜物と知識を正しく使うことができませんでした。むしろ、それらのために争いや分裂が起こったのです。また、それらを持って自慢したり、高くなろうとしたりしました。さらに、倫理的に堕落し、パウロが教えた福音と違う教えに従い、教会が困難な状況になってしまったのです。その中で一番深刻な問題は、正しい復活の信仰を持っていませんでした。今日の箇所を見ますと、コリント教会に死者の復活を否定する思想が入り込んだのです。当時、ギリシャ文化には、肉体を軽く思い、軽んじていました。それと違い霊魂だけを強調する傾向がありました。それで、多くの人は、[霊魂は復活しますが、肉体の復活はない]と主張しました。パウロは、これに対してコリント教会の聖徒たちに勧めているのです。先週も学びましたが、私たち改革派教会は、歴史的な出来事であるイエス様の十字架の死と復活を信じているし、この信仰がキリスト教の核心だと告白しています。さらにキリストが死者の中から復活されたように、私たちが死んでも肉体と共に完全に復活すると信じています。
パウロは、仮定法を使って説明をします。13-14節を見てください。[死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です] もし、復活がなければ、このような結果となるという意味です。パウロは、死者の復活を強調したのです。具体的に死者の復活がなければ、どのような結果となるのでしょうか。まず、もう一度13節を見ますと、キリストも復活しなかったと言います。そして、14節から19節を見ますと、‛私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄だ’、‛私たちは神の偽証人とさえ見なされる’、また‛あなた方の信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになる’また、‛キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまう’、さらに‛私たちはすべての人の中で最も惨めな者’となるとパウロは言います。パウロがこのように言ったのは、決して誇張した話ではありません。
イエスキリストは、預言者と大祭司、また王として働きをなさいました。その中で、イエス様の復活は、キリストの大祭司的な働きの印です。イエス様の十字架は、贖いの捧げものであり、イエス様の復活は神様がその贖いの捧げものを受け取ってくださったという公の宣言だと言います。ですので、もし、復活がなければ、イエス様の十字架は失敗したことなのです。そうだとすれば、私たちはまだ罪の下にあるでしょう。私たちが義とされたという意味は、イエス様が十字架の上で死なれたという出来事だけではなく、死なれてから三日目に復活したイエス様の復活の出来事によって完全に義とされるのです。ローマの信徒への手紙4章25節に[イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです]と書いてあります。
復活がなければ、福音はありません。
20節を見てください。パウロは、今までの話から大転換します。[しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました] パウロはキリスト教の信仰の核心を勧めているのです。パウロは、キリストを‛初穂’と言います。旧約聖書を見ますと、初穂を神様に捧げました。この意味は、これから得る全体の収穫の保証でした。初穂があるのならば、その次も必ずあるのです。すなわち、キリストの復活は、イエス様ご自身だけの出来事ではなく、契約の民全体の復活の保証となるのです。
アダムとキリストはそれぞれ代表です。契約の頭です。22節を見ますと、[つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです]と書いてあります。ここで、[すべての人が生かされることになる]という言葉が書いてありますが、これは、普遍的救いを意味することではありません。文脈的に見ますと、23節の後半部分に書いてある[キリストに属している人たち]を意味します。注釈によりますと、[すべての人]の範囲は、それぞれの代表に属している人たちを示すそうです。
23節以下を見ますと、パウロは終末について言います。
[最初にキリスト、ついで、キリストが来られる時に、キリストに属している人たち、次いで、終わりの時が来ます。その時、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます]
復活は、単純に死んでからよみがえられたという出来事ではありません。死の滅びの宣言です。復活されたイエスキリストは今も生きておられ、すべてを治めておられます。そして、最後の日には、完全な勝利を現わしてくださいます。
29節を見てください。解釈することがとても難しい御言葉です。[そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼をうけるのですか。] この御言葉の正確な意味については、神学者たちの間にもいろいろな見解があります。注釈によりますと、当時、コリントの教会の中でこのような慣習があったそうです。しかし、今はこのような習慣は容認できません。重要なのは、この御言葉の正確な意味は分かりませんが、パウロは[死者の復活がなければ、このような行為も無意味である]ということを主張したのです。
30-32節を見ますと、パウロは自分の苦難を言いながら死者の復活を強調します。一言で言いますと、パウロは死者の復活を伝えるために[私は日々死んでいます]と言います。死者の復活がなければ、パウロはこのようにしたのでしょうか。
復活の信仰は、苦難を耐えることができるようにします。しかし、復活がなければ、どうなるのでしょうか。
パウロは、復活の信仰がない姿についてこのように言います。32節の真ん中から見てください。[もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります] 未来がない人生の姿です。これは快楽主義者たちの姿です。死者の復活がなければ、今生きている今が全てです。審判もないので、自分の行動に何の責任もないまま行動をします。しかし、復活があるので、私たちは未来があり、私たちの行為は意味を持っています。聖なる神様に似た人として、また復活された主に従う聖なる人生を生きなければなりません。それで、パウロは、34節を通してこのように言います。[正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない] 復活の信仰は、ただの教理だけではありません。日々の生活に現わされなければなりません。復活の信仰は、必ず、敬虔な人生を生きようとします。
ある神学の先生が神学生に質問をしました。[キリスト教を一言で言います何といえば良いのですか。] すると、ある神学生は、[十字架です。十字架がなければ、キリスト教は、道徳を教える宗教となるからです]と答えました。
その答えを聞いた先生はこのように言いました。[それは、正しい答えです。しかし、復活がなければ、十字架も意味を失います] これはどういう意味なのでしょうか。十字架は、主の死と共に復活と解釈できます。復活がなければ、十字架はただ、ローマの処刑道具に過ぎないという意味です。私たちは、生きておられるキリストを信じています。また私たちは、死者の復活を信じています。そして、私たちは新しい天と新しい地を待っています。復活は、私たちの慰めてであり、私たちの力であります。また私たちが生きる根拠でもあります。
聖徒の皆様。
私たちはそれぞれの苦難に立ち向かっています。時には落胆をしたり、挫折をしたりする時があります。さらに主のために生きる間損害を受ける時もあります。それでも揺らいではなりません。その時こそ、すでに復活されて主を仰ぎ見、また私たちも復活されることを信じ、復活の主の道に従う人生を生きましょう。必ず、主が喜ばれると信じます。
