キリストの復活
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 15章1節~11節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 15章1節~11節
私が善通寺に来て、自分の目で見て感じたことの中で本当に素晴らしいことがあります。以前にも言いましたが、それは麦が成長していくことです。私は、それが当然なことだと思いながらもその過程を見ながらとても深く考えることができました。コメの収穫を終え、冬に近づく頃に麦の種を蒔きます。冷たくて死んだ土のように何もないように見えますが、土の中には種が生きています。表面的には、死んでいるように見えますが土の中で少しずつ成長し、薄い緑の芽を出します。今の時季麦畑を見ますと、少しずつ芽が濃くなっていくことを皆さんも見るでしょう。麦の種が生きているのかどうか人の目には見えませんが、土の中では新しい麦の実を結ぶために準備しているのです。このようイエス様のお墓は、終わりのように見えましたが、神様は死の底から新しい命を用意しておられました。復活は、死の終わりではないという宣言です。信仰の先祖たちがこの復活の信仰を持ち、最後まで信仰を守り主に従いました。私たちが信じているキリスト教の核心は、復活です。
1節を見てください。パウロは [兄弟たち、私があなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません] と言います。コリント教会は、賜物も多く与えられ、知識も豊富でしたが、復活の信仰が揺らいでいました。それでパウロは信仰の本質に戻ろうとしたのです。改革信仰は、いつも聖書が教える信仰に戻る信仰です。自分の信仰の経験や多くの知識に従うことではなく、神様がすでに啓示された聖書、福音に従う信仰です。パウロは、1-2節を通して福音をこのように説明します。1節に書いてありますが、[あなたがたが受け入れたことと、生活のよりどころとしていること]だと言います。また2節に[救われる]ことだと説明しています。すなわち、福音はただ、聞いて過ぎ去る情報ではないということです。私たちに与えられた福音は、私たちの生活のよりどころであり、私たちが救われる恵みです。
3-4節を見てください。ここには福音の核心が何かについて教えます。[最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと] ここで、重要な言葉が繰り返して出ます。それは、「聖書に書いてあるとおり」という言葉です。私たち改革派教会が一番大切に信じていることです。宗教改革をした根拠です。「ただ聖書、Sola Scriptura」です。
イエス様の死と復活は、神様の救いの計画の中で、聖書を通して先に啓示された出来事です。イエス様の死は、偶然な悲劇ではありません。また、ローマ政府の政治的な過ちもユダヤ人が陰謀をたくらんで殺したことでもありません。イエス様の死は、神様の救いの計画の中にある出来事でした。そして、主イエス・キリストの死は、私たちの罪のためでした。イエス様の死を通して私たちがはっきり悟ることは、罪によって完全に堕落した人間は自ら救われることができないということです。
罪が支払う報酬は死です。罪のために私たち人間は、神様の怒りの下にありました。しかし、主イエス・キリストは私たちの代わりに十字架の上で死んでくださいました。これが贖いです。恵みです。私たちは、この恵みを受け、救いの喜びの中で生きているのです。
5-8節見ますと、パウロは復活の証人たちを列挙します。並べています。まず、5節に[ケファに現われ、その後十二人に表れた]と書いてあります。6節には[五百人以上もの兄弟たちに同時に表れた]と書いてあります。7節には[ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れた]と書いてあります。8節には[月足らずで生まれたような私にもあらわれました]と書いてあります。すなわち、パウロに現れたということです。
パウロは、コリント教会の聖徒たちに妄想的な復活、神話のような復活ではなく、本当に事実であった復活を伝えました。そして、実際に主の復活を目撃した復活の証人たちを列挙したのです。パウロは、主の復活こそ事実だと伝えました。
キリスト教の信者たちはこの出来事を信じていますが、私たちの改革派教会の信仰は、歴史的事実の上に立てられています。特にイエス様の死と復活は、実際に起きた歴史的な事実です。私たちが信じている復活が実際的な出来事でなければ、キリスト教の信仰は崩れてしまい、偽りの宗教となります。主の復活は、単純に希望のメッセージではありません。またギリシャ神話のように面白く書かれた話でもありません。主の復活は実際の出来事であり、多くの人が目撃し、伝えた福音です。さらに、主の復活は神様がイエス様の働きを承認されたという公の宣言でもあります。
イエス様は十字架を背負い、私たちの罪のために十字架の上で死なれ、復活されました。その主の復活は、私たちを義とされてくださったという確証です。また、イエス様が復活されたということは、復活の主を信じ、主の中にとどまるすべての人も必ず、復活の主のように復活するという約束であります。このイエス様の復活を信じる人は、イエス様の中で完全に変えられ、復活の主に従う人生を生きるのです。その体表的な人がパウロです。
9-10節を見てください。[私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日の私があるのです。そして、私に与えられた神の恵みは無駄にならず、私は他の全ての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです]
これが主の復活を信じる信仰の人々の姿です。自分が変えられたことも、自分の使命も、また今、自分の全てが神様の恵みだと告白します。これを悟ったパウロは、[私は他の全ての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです]と告白したのです。
パウロの告白を見ますと、神様の主権と人間の責任が共に現れます。パウロは確かに苦労をしながら一生懸命に働きました。しかし、その働きさえ、神様の恵みの結果だとパウロは告白しました。復活の主を信じる私たちは、この二つを同時に悟らなければなりません。すなわち、“すべてを神様がなさいました。しかし、私は責任あるように忠実に従いました” ということです。これが、主の復活を信じる人の姿勢です。
聖徒の皆様。
時代が変わり、環境が変わったとしても福音は変わりません。教会が揺らいでいる理由は、変わることがない主の復活の福音を信じることなく、周りの問題に執着するからです。ですので、主の復活というのは、まるで夢の中で起こることだと思ってしまう時があり、現実的に私たちに近づいて来ないのです。しかし、主の教会は、また聖徒である私たちは、歴史の中で実際に起こった救いの御業、主の十字架と復活の信仰を回復しなければなりません。私たちの救いは、十字架の上で死なれ、復活された主イエス・キリストの福音を信じることから始まります。そして、私たちの救いは、すべてが神様の恵みであり、決して私たち自ら得ることはできません。本当の恵みを受けた人は、必ず、信仰の実を結びます。パウロは、恵みを言い訳にして怠りませんでした。主の恵みは、私たちを働かせます。さらに、私たちに救いの喜びを与えてくださった主の福音を伝えるのです。
聖徒の皆様。
私たちが信じている主の福音は、道徳的な教訓がありません。主の福音は、実際に起こった出来事として十字架の上で死なれ、復活されたキリストの福音です。私たちはその福音を受けて、その福音を生活のよりどころとしています。また、その福音を通して救われました。それにもかかわらず、私たちの心の中で他のことにより頼むようなことがあるならば、悔い改めましょう。
私たちが救われたのは、私たちの義ではなく、また私たちの功労でもありません。すべてがキリストの十字架の死と復活のためです。また、私たちの力ではなく、すべてが神様の恵みです。この素晴らしい出来事を覚え、[私は他の全ての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです]と告白し、生きていきましょう。
