愛を追い求めなさい
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 14章1節~25節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 14章1節~25節
先週、コリントの信徒への手紙一13章を通して愛の大事さについて学びました。
パウロは、その愛を悟ったならば、今日の箇所、1節に[愛を追い求めなさい]と言います。ギリシャ語で[追い求めなさい]という言葉は、[熱情、力を注ぐこと]だそうです。
すなわち、愛はすべての行動の原理だということです。私たちが教会で、また人生の中で愛という結果を得ることができるように最善を尽くしなさいという言葉です。パウロは、賜物をどのような原則を持って使わなければならないのかについて大きく三つのことを言いました。一つ目、コリントの信徒への手紙一12章7節に[一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです]と書いてあります。
すなわち、教会の利益のために使わなければなりません。二つ目、愛です。先週学びましたが、愛を持って賜物を使うならば、教会全体に益となるという意味です。三つ目は、次に学びますが14章40節に書いてあります。[すべてを適切に、秩序正しく行いなさい]ということです。
霊的な賜物は、キリスト者にとってとても大事です。問題は、それに対するキリスト者の態度が問題です。その問題が今日の箇所に出ます。
コリント教会の聖徒たちは、霊によって多くの賜物を与えられました。その中で異言の賜物も与えられました。しかし、聖徒の中で異言の賜物の霊的な優越性を主張し、無分別に使ったのです。
さらに、礼拝を捧げる時、異言の賜物のために問題が起こりました。この話を聞いたパウロは、具体的に例を挙げながら勧めたわけです。
1節をもう一度見てください。[愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい]と言います。何度も言いましたが、霊的な賜物はすべて聖霊が与えてくださった大事なものです。しかし、パウロは現在問題となった異言と預言を意図的に比較し、対照させます。比べます。
一言で言います。聖徒の交わり、すなわち教会の集まりにおいては、異言より預言がもっと益となるということを勧めました。
その理由は、預言が異言より必要だからです。2節を見ますと、異言は人に向かってではなく、神様に向かって語るものです。
また異言を語ると誰にも分かりません。さらに、異言は霊によって神秘、秘密を語るものです。
ですので、パウロは教会の集まりにおいては、異言より預言を勧めたのです。パウロのような説教者は、誰でも分かる言葉で信者たちに神様の神秘、秘密を語ります。神様の啓示は、知らせるために与えてくださったのです。聞いても分からない異言を通してではなく、神様の御言葉や神様が造られた天地万物を通して神様の啓示が知らせられました。
しかし、コリント教会の聖徒たちは、他人には分からない神秘、秘密を語ると言いながら、プレゼントとして与えられた霊的な賜物である異言を自慢し、無分別に仕え、教会に問題を起こしたのです。彼らのこのような行為は、霊的な賜物の目的に反する行為です。
それで、パウロはコリント教会の聖徒たちがそのようにしないように預言と比較し、勧めます。分からない言葉で語る異言と違い、預言は人に正しく語る賜物です。預言は、自分の考えや思いを語ることではなく、聖霊を通して語ることです。
すなわち、預言は聖霊が与えるメッセージを誰でも分かるような言葉を通して語り、通じるようにします。分からない神秘、秘密ではなく、誰でも分かる神秘、秘密です。ですので、預言を通して教会の益となり、互いに慰め、励ましとなるのです。聖霊が与えてくださる御言葉が伝えられるならば、その御言葉を聞く人と教会に益となり、教会が、また兄弟姉妹が正しく立つことができます。
これこそ、霊的な賜物を与えてくださった目的です。ですので、パウロは霊的な賜物を熱心に求めなさいと言いながら、特に預言するための賜物を熱心に求めなさいと言ったのです。
異言と預言の賜物は、機能的な面から見ますと差があります。異言を語る人は自分自身を立てます。
しかし、預言を語る人は、教会を立てます。それで、パウロは異言より預言を熱心に求めなさいと言いました。異言より確かな言葉を通して分かるようにする預言が大きな価値があると勧めました。
もちろん、異言も分かるように聞こえるならば、預言と同じように益となる賜物に間違いありません。異言が通訳され教会が立てられるならば、それは預言の賜物ほど、益となります。
しかし、通訳がないまま語られる異言は、預言のように益となりません。このように賜物の大きさが評価できる基準は、愛を持って使わされ、教会と共同体全体に与えられる益なのです。
教会で行うすべてのことは、教会共同体全体の益とならなければなりません。兄弟姉妹には関心がなく、自分だけの礼拝、自分だけの働きとなってはなりません。神様はこれを願われません。同じように教会と兄弟姉妹に益とならない賜物は、何にもならないと教えているのです。
異言であれ預言であれ、語る賜物の益とは、語る言葉が理解できなければなりません。語る言葉が全く分からないとそれは無意味です。
どんなに立派で美しい言葉を語っても人々が分からなければ何の役にも立ちません。
このような観点から見ますと、異言は公の教会の集まりには役に立ちません。
ですので、パウロはコリント教会の聖徒たちが分かるように神様の啓示と神様の知識、また預言をし、多くの勧めをしたのです。パウロは、コリント教会の聖徒たちが分かるように日常的な言葉で語り、救いの道を教え、彼らが救いの道を歩むことができるようにしました。
今日の御言葉を見ますと、パウロは楽器の例を挙げて異言と預言の差を説明します。
特に、ラッパがはっきりした音を出さなければ、誰が戦いの準備をしますかと言いながら明確な言葉を口にしなければ、何を話しているかを分からないと言います。
昔、ラッパを吹いて進撃と退却の合図を知らせました。それぞれの合図が違ったそうです。パウロはこのように例を挙げながら、異言の無実効性を指摘したのです。
私たちが話すことの重要性は、ほかの人が理解すること、分かるように話すことです。私たちが話をする時、誰も知らない言葉や合図を使うならば、誰もその話を理解することができないでしょう。
異言は、霊的な賜物ですが一つの言語です。言語の目的は、意味を伝えることにあるので、聖徒の間で意味も分からない異言を公に使うならば、それは何の益にもなりません。
異言は教会の公の集まりには何の益にもなりません。先ほども言いましたが、霊的な賜物は目的があり、共同体の益となるために与えられました。
病気を癒す賜物は、元気な人には益となりません。異言も目的があり、益となりますが、公の教会の集まりにはふさわしくありません。霊的な賜物の価値は、愛の中で使い、教会を立てるために、また兄弟姉妹を立てるために使い、そこに価値があるのです。
先ほども言いましたが、異言も霊的な賜物として目的と信仰の益となります。決して悪いこともなく、低く評価される理由もありません。
ただ、ふさわしく使うべきところがあり、方法があるということです。それで、パウロは異言を語る人は、自分が語ることを解釈することができる賜物も与えられるように祈りなさいと勧めました。パウロは。異言を語る本人も解釈できない異言の無意味を強調したのです。
私たちの教会ではしませんが、ほかの教団、ほかの教会では公の集まりの時、異言で祈る人がいます。異言を語り、異言で祈るというのは、人に向かってではなく、神様に向かって語り、霊によって神秘、秘密を語ることです。
しかし、何を語っているのか、何の祈りをしているのかはっきり分かりません。他人はもっと分かりません。異言を語り、異言の賜物を与えられたということは、神様に感謝することです。
しかし、異言は自分を現わす特別な手段ではなく、霊的な賜物の中の一つです。この異言は、教会の公の集まりの中で語り、祈るのは限界がある賜物です。
ですので、皆が集まっているところで自慢するように異言を語り、それに集中することはふさわしくありません。個人的に祈る時はいつでも良いのです。存分に使っても良いのです。自分の信仰を強くするためには益となります。
聖霊は、信仰の共同体の益のために多様な賜物を与えてくださいました。
しかし、19節を見ますと、パウロは‛ほかの人たちを教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります’と言いました。異言自体は決して悪いことではありません。霊的な賜物です。
しかし、ほかの人が聞き、分かることが重要なのでパウロは異言についてこのように言ったのです。
何度も言いましたが、霊的な賜物は教会と他の人々に益となることが大事です。もし、教会の中で異言ばかりを語るならば、未信者が教会に来た時どのような反応を見せるのでしょうか。23-25節をご一緒に読みましょうか。
私たちキリスト者にとって、神様の御心が大事であり、神様の御心をこの地に実現することが大切です。それを無視し、自分の益だけを考え、自分だけを現わす賜物だけを強調する人は、非難を受けるようになります。
パウロは、異言と預言を比較しながら私たちに言いたかった勧めは、教会の中で皆の益とならず、自分だけを現わし、自慢する異言は、ふさわしくないということです。
むしろ、皆の益となる預言をすることが相応しいと強調しました。すなわち、教会と兄弟姉妹たちの益となることこそ、何より大事だということを勧めています。
聖徒の皆様。
私たちはそれぞれに違う賜物を与えられました。私たちはその賜物を持って教会を立てて、兄弟姉妹たちを立てなければなりません。
すなわち、皆の益のために使わなければなりません。各自が神様の前で信仰生活をしますが、それで終わることではなく、教会と兄弟姉妹たちの益となるために信仰生活をしなければなりません。
一人で祈ることも一人で聖書を読むことも、また一人で奉仕をすることも大切です。
しかし、それを通して自分を現わし、ほかの人を無視する行動をしてはなりません。霊によって与えられた賜物は、互いに理解し、教会と兄弟姉妹を立てること、また共同体全体の益となるために使うべきです。そうでなければ、どんなに素晴らしい賜物だとしても何の益にもならず、何もないのです。
霊によって与えられた賜物は、愛するために与えられたものです。
ですので、霊によって与えられた賜物を持って教会と兄弟姉妹のために、また隣人のために使い、生きていきましょう。
これこそ、神様が願っておられる人生です。
お祈りを致します。
