愛がなけれが
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 13章1節~13節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 13章1節~13節
先週、私たちは霊的な賜物を使う前にまず、注目しなければならないことが何かについて学びました。一つ目は、聖霊に注目すること、二つ目は教会に注目すること、また三つ目は教会の兄弟姉妹に注目することでした。霊的な賜物は、聖霊が与えてくださったもので、私たちの努力によって与えられるものではありません。霊的な賜物は、プレゼントです。神様が私たちに霊的な賜物を与えてくださった理由は二つです。教会と兄弟姉妹に仕えるためです。それで、霊的な賜物は、自分のためだけに使ってはなりません。教会の益のために、またほかの兄弟姉妹を助けるために聖霊によって私たちそれぞれに違う霊的な賜物を与えてくださいました。皆が同じ賜物を与えられたのならば、私たちは互いに必要ではなくなるからです。私にはない賜物をほかの人が与えられたので、互いに助け合うことができるのです。ですので、私たちは与えられた霊的な賜物に対して、優越感も劣等感も持ってはなりません。
しかし、12章31節を見てください。ここでパウロは[もっと大きな賜物を受けるように熱心に務めなさい]と言います。先ほど、私はそれぞれに与えられた賜物のために優越感や劣等感を持つ必要がないと言いました。しかし、パウロはなぜ、“もっと大きな賜物を受けるように熱心に務めなさい”と言ったのでしょうか。ここで、[もっと大きな賜物]というのは、賜物の序列があるという意味ではありません。霊によって与えられた賜物は、すべて教会に必要な賜物です。しかし、どの賜物がもっと教会に益となる賜物なのかという観点からみると、多少の差が確かにあります。すべての賜物は大事ですが、教会の益となるという面で考えると差があるということです。それでは、どのような賜物がそのような賜物なのでしょうか。13章の愛と14章の預言の賜物がそのような賜物です。
それでは、賜物と愛とはどのような関連があるのでしょうか。結論から言いますと、どのような賜物でも愛がない賜物は、[無に等しい]ということです。反対に愛から出た賜物、心のこもった愛の賜物は、私たちの目には小さく見えるものだとしても大きな賜物だということです。それが13章を通してパウロが勧めた内容の結論です。1-3節をご一緒に読みましょうか。
ヨハネの手紙一4章8節と16節を見ますと、使徒ヨハネは神様を[愛]だと言います。神様が愛を持っておられると言ったのではなく、神様を愛だと言います。すなわち、神様ご自身が愛だということです。それで、私たちが信じているキリスト教を愛の宗教だと言います。愛を除いたら、キリスト教ではありません。神様の愛によって私たちが救われ、主の子どもとなったのです。[愛]というのは、キリスト教の本質だと言えます。マタイによる福音書22章34‐40節を見ますと、イエス様が全ての律法と預言者は、神様の愛と隣人の愛に基づいていると教えているのもこの意味です。神様の御言葉に従って生きるということは、神様を愛し、隣人を愛する人生だということです。しかし、コリント教会の聖徒たちは、愛を実践する事より天使たちの言葉を語ろうと、またあらゆる知識を持とう、また山を動かすほどの完全な信仰を持とうとします。そして、これらの事をもっと大事にしました。多くの奉仕と施しをしましたが、心の中には愛がありませんでした。むしろ、自分が良いことを行っていると錯覚したのです。
正直に言いますと、異言と預言、また知識と大きな信仰、さらに多くの奉仕と施しをすることは、私たちの信仰生活においてすべてが重要です。その中で、一つだけでも誠実に実践しているならば、良い信仰生活ができているように見えます。しかし、このすべてを持っていたとしても愛がなければ、[無に等しい]とパウロは勧めています。表面的にはどんなに素晴らしく大きなことをしていても心の中に愛がなければ何の益もないということです。
エフェソの信徒への手紙4章15節を通してパウロは、このように言います。[むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます] この御言葉を覚えていますでしょうか。去年、私たちの教会標語の御言葉です。また、イエス様は初めのころの愛から離れてしまったエフェソの教会に向けて、それを悔い改めなければ[あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう]と言われました。この理由も愛のためでした。愛がなければ、無に等しいからです。それほど、愛はキリスト教の核心であり、信仰生活の基準であります。
4-7節を見てください。愛が表れている姿について教えています。一つ一つ説明はしませんが、このように書いてあります。[愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える] この御言葉が好な人も多く暗唱する方もいます。この御言葉に基づいて曲を作る方もいます。とにかく、この愛は神様が私たちを愛した愛です。聖書全体を読みますとこの愛が表れています。しかし、この御言葉の反対の意味、愛がなければどうなのでしょうか。
4-7節に書いてある御言葉を反対に考えてみます。私たちはこの御言葉を読む時、このように考えなければなりません。私は忍耐強いのか。私は情け深いのか。私は誰かをねたんでいるのではないのか。私は自慢しているのではないのか。私は高ぶっているのではないのか。私は礼を尽くしているのか。私は私だけの利益を求めているのではないのか。私はいらだっているのではないのか。私は恨みを抱いているのではないのか。私は不義を喜んではいないのか。私は真実を喜んでいるのか。私はすべてを忍んでいるのか。私はすべてを信じているのか。私はすべてを望んでいるのか。私はすべてに耐えているのかなど。このように自分を振り返りながら私たちは愛を持って信仰生活をし、霊によって与えられた賜物を使わなければなりません。また、注意する事は、この御言葉を持って兄弟姉妹に“あなたはなぜ、愛がないの。なぜ、私を愛してないの。なぜ、このような愛の実践がないの”というように、兄弟姉妹を責めてはなりません。このような言い方や行動は、正しくない態度です。本当に愛がある人はそのように責めません。むしろ、そのような行動は愛がない行動なのです。兄弟姉妹を判断する前に、この御言葉を通して自分自身を振り返り、愛を実践することが大事なのです。
11-12節を見てください。[幼子だった時、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせてみることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる]
パウロは、今までコリント教会の聖徒たちが霊的に未熟だったので、様々な問題が起こったことに対して叱責し、勧めました。性的な問題と偶像崇拝の問題、また偶像に備えられた食べ物についての問題、公に捧げる礼拝についての問題など。さらに、コリント教会の聖徒たちは霊的な賜物を豊かに与えられて、自分たちが霊的に高いレベルだと思うほどに錯覚していました。それで、パウロは何度も叱責し、勧めたのです。11節を見ますと、コリント教会の聖徒たちの姿を表した単語が5回出ます。その単語は[幼子]という単語です。パウロは、自分の幼子だった時を思い出しながら霊的に未熟なコリント教会の聖徒たちの状況を悟るようにしました。それでは、霊的に成熟した人はどのような人でしょうか。パウロが勧めた今日の箇所の内容で言いますと、愛に基づいて主の教会と兄弟姉妹のために愛を実践する人が霊的に成熟した人だということです。すなわち、すべての霊的な賜物を与えられた人だとしても、愛がなければその人は霊的に未熟な人だという意味です。
聖徒の皆様。
先週の箇所である12章31節、[あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に務めなさい]と勧めたパウロは、その結論を今日の箇所、13節を通してこのように言います。31節を見てください。[それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である]
この御言葉を通してパウロが言いたかった内容は何でしょうか。[その中で最も大いなるものは、愛である]ということです。人が目に見える素晴らしい賜物を与えられても愛がなければ、それは、[無に等しい]、愛がなければ、教会で多くの働きをしたとしてもその人はまだ、霊的に未熟な幼子にすぎないということです。ですので、最も大きな賜物であり、一番大切な愛を失ってはならないと勧めたのです。このことをパウロが13章を通して言いたかった内容です。神様の愛、主が私たちを愛したように私たちもその愛を持って教会と兄弟姉妹の益となるため、またキリストに至るまで成熟したキリスト者として、一緒に成長して生きましょう。
