良い結果を招く集まり
- 日付
- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 11章17節~34節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 11章17節~34節
プロテスタント教会の信仰において重要な二つの礼典は、洗礼と聖餐です。この二つは、イエス様がこの地におられた時行われ、また私たちにもそのようにしなさいと言われました。これらの礼典は、キリスト教信仰の核心を目で見るようにする聖なる儀式です。聖餐というのは、キリスト者として生きる私たちの人生が、イエスキリストと一つとなることを信仰の目を持ってみるための礼典です。しかし、コリントの教会でイエス様が命令された聖餐を行った時、問題が起こりました。パウロは、これを指摘しながら正しい教会の姿について再び勧めます。主に称賛を受ける教会の姿はどのような姿なのか、御言葉を通して学びましょう。
パウロは、11章2節を通してコリント教会の聖徒たちを称賛しました。[あなたがたが、何かにつけ私を思い出し、私があなたがたに伝えた通りに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います] 使徒が教えた御言葉を守っているので称賛をしたのです。しかし、17-34節は主の晩餐について言いながら、‛称賛することができないこと’があると言います。17節に[私はあなたがたをほめるわけにはいきません]と書いてあります。17-22節は、礼拝の中で行った主の晩餐について指摘しています。18節を見ますと、[あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。私もある程度そういうことがあろうと思います]と書いてあります。
コリント教会が集まる時、その集まりを称賛することができない理由は、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。その結果というのは、[お互いの間に仲間割れがある]ということです。
教会の集まりというのは、とても大事で神様の御心です。ヘブライ人への手紙10章25節に[ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いしましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか]と書いてあります。聖霊に導かれ生きる神様の民が集まることに熱心を持つことは当然です。
五旬際の時、聖霊が降ってから教会が生まれました。それで、聖徒たちの集まりが始まります。この集まりは、使徒言行録2章42節を見ますと、使徒の教えを受け、互いに交わり、またパンを裂き、祈るために熱心がある集まりでした。また、使徒言行録2章44節には、[信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し]と書いてあります。さらに。使徒言行録2章46節には、[毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事をし]と書いてあります。当時の集まりは、このようにしたのです。聖霊のお働きの中で、初代教会の特徴は、[集まり]があったということです。
教会に集まるということは、教会の兄弟姉妹として自分の責任意識、またメンバーシップを持つという意味です。何度も言いましがが、キリストの中で[自由だ]ということは、自分勝手に生きることではなく、教会共同体の兄弟姉妹として責任意識、またメンバーシップを持つ自由であります。ですので、教会共同体の兄弟姉妹として集まりに熱心な人こそ、聖霊の導きによって生きる人です。教えらえるために集まり、聖徒の交わりのために、また祈るために集まり、さらに、主の晩餐のために皆が集まらなければなりません。私たちキリスト者は、教会の集まりを大事に思わなければなりません。
しかし、悪い結果を招いている集まりは持ってはなりません。この集まりは、ほめられることはなく、主が喜ばれない集まりなのです。[集まり]としても、すべての集まりが良い結果を招く集まりではありません。主が喜ばれることを思い、主の御心に従う集まりが良い結果を招く集まりです。教会と聖徒の益となる集まりこそ、主が喜ばれる集まりです。悪い結果を招く集まりや教会の秩序を崩す集まりは、持たなくても良いのです。
18節を見ますと、どのような集まりがほめられない集まりなのかについて教えます。[あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています] パウロはこのことについて聞いたのです。すなわち、教会に集まる時、紛争があったということです。19節に[あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません]と書いてあります。仲間割れと紛争、また仲間争いがある集まりは、ほめることができない集まりであり、また、主が喜ばれる集まりでもありません。
私たちがすでに学びましたが、コリントの信徒への手紙一1章11、12を見ますと、コリント教会に争いや分派があったと書いてあります。パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派がありました。主は、このような紛争、争いを願われません。なぜでしょうか。主の晩餐から考えますと、[パンは一つだからです。また、私たちは大勢でも一つの体だからです。聖餐式を通して私たちがキリストの中で一つであるということが分かります。教会がイエスキリストの中で一つだということを聖餐式を通して表われるのです。教会の争いや分派は、一つとなることを壊す行為です。私たち教会が聖餐式を行いながら争いをしたり、分派を作ったりするならばどうでしょうか。主が喜ばれるのでしょうか。主は、キリストの中で一つとなり、互いに愛し合い、互いに励まし合うことを願われています。
コリント教会の中には、紛争や分派だけがあったというのではありません。階層間に差がありました。すなわち、お金持ちと貧しい人の間に深刻な紛争が起こっていました。20節を見てください。
[それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです] また、21-22を見ますと、その内容について記されています。
主の晩餐は、キリスト者たちがキリストの中で一つとなった兄弟姉妹だということを、また一つとなった体だという意味をします。主の血によって救われた神様の民が互いに交わりをするという意味もあります。お金持ちも貧しい人も、またユダヤ人も異邦人も、さらに男性も女性も皆がキリストの中で一つであることを告白し、交わりをする時間です。しかし、コリントの教会は集まりの中でこのことに反する問題を起こしたのです。21節を見てください。[なぜなら、食事の時、各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです]と書いてあります。
初代教会は、今の時代のように教会堂がほぼありませんでした。ある程度豊かな人がイエス様を信じてから集まりを持つように自分の家を提供した時が多かったのです。実際にコリントの教会の中には、このような人たちがいたそうです。この人たちが多くの食べ物を持って来ましたが、貧しい人たちを待たず、自分たちが先に食べたのです。既に学びましたが、コリントの信徒への手紙一1章26-28節を見ますと、コリントの教会のほとんどの人々は、食べ物を準備する事ができない身分の出身、例えば、奴隷や貧しい人、そして労働者の出身が多くいました。このような兄弟姉妹は、自分の仕事のために集まりに遅れたでしょう。彼らが集まりに到着した時、すでにお腹がいっぱいになった人も、酔っている人もいました。ですので、貧しい人たちは食べ物がないので、食べられない時が多々あったそうです。貧しい人たちは自分に置かれた環境に不満を言ったでしょう。このような集まりはほめることができないということです。
それでパウロは、このように言います。22節を見てください。[あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません] コリントの教会の聖徒たちが行っているこの行動は、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせることだと言います。主イエス・キリストの中で一つとなったということを表さなければならない主の晩餐の時に、仲間割れがある集まりとなったのです。このような集まりは、決してほめることができないということです。
私たちは、パウロがこのように言った意図をよく理解しなければなりません。主の晩餐の集まりを無くそうという意味ではありません。教会の一致を崩してはならないということです。主の中で一つとなった教会が、世の人々のように自分の益のために仲間割れをすること、差別をすることを決してしてはなりません。この集まりはほめられる集まりではありません。ヤコブの手紙2章1節に[私の兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません]と書いてあります。人を外見と見た目で、また世の観点から判断してはならないという意味です。私たちの主イエス・キリストは、このようには教えておられません。またこのようになさいませんでした。私たちがどのようにして救われ、主の民となったのかを深く考えずに、また主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
この世にある教会は、たまにこのようにする時があります。教会の礼拝や集まりに外見も見た目も素晴らしい人が参加した時、積極的に[はい。どうぞここに座ってください。どちらから来られた方でしょうか]と言いながら一番良い席に座るようにします。しかし、貧しい姿でぼろぼろの服を着た人が礼拝や集まりに参加した時には、あまり関心もなく、[あの、あそこに席が空いているので、あそこに座ってください]と言います。もちろん、直接には言いませんが、このような態度を見せる時があります。このようなことについてヤコブの手紙2章4節に[あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか]と書いてあります。またヤコブは、神様に選ばれた貧しい人も同じように神様の御国を受け継ぐ者となり、信仰に富ませた人だと教えます。
私たちの主の教会は、身分や地位によって、また富によって人を差別してはなりません。主の教会は、世の物によって差別される、仲間割れがある教会共同体となってはなりません。主イエス・キリストの中で、一つとなり、同じ体となった共同体だからです。教会は、神様の民として互いに尊重し、愛し合う共同体でなければなりません。一つとなった神様の民として、また兄弟姉妹として主の晩餐も聖徒の交わりも行う愛の共同体となって、良い結果を招く集まりをする恵みを分かち合いましょう。
