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2026年01月11日「すべてのものが神から出ている」

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 11章2節~16節

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教会は、神様に呼ばれた人々の集まりです。ですので、教会は神様がどのようなお方であるのかを悟ることが大事です。また、主の教会共同体の中に加えられた人々は、教会の権威と秩序に従わなければなりません。そのようにしなければ、教会共同体には、様々な問題が起こるからです。8-10章で偶像に供えられた肉、また食べ物と偶像崇拝について勧めたパウロは、11-14章で礼拝と関係する六つの主題、また礼拝に表れる無秩序について勧めています。今日の箇所である11章2‐16節には、礼拝を捧げる時の服装の問題についての内容が出ます。また11章17-34節は、主の晩餐についての内容です。そして、12-14章には賜物についての内容が出ます。これらの内容を参考してください。

今日の箇所を見ますと、パウロは礼拝をする時、女性たちの行動について勧めています。まず、2節を見てください。[あなたがたが、何かにつけ私を思い出し、私があなたがたに伝えた通りに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います] 今までの箇所でパウロは様々なことでコリントの信徒たちを叱責しました。しかし、今日の箇所では称賛から始めます。その称賛とはどのようなことでしょうか。[私があなたがたに伝えた通りに、伝えられた教えを守っている]ということです。パウロが伝えたことは、主イエス・キリストの教えとほかの使徒たちの教えと一致する教えです。コリントの信徒たちはこれらを守っていたということです。すなわち、パウロが伝えた神様の御言葉と主の福音を守っていたので、パウロは彼らを称賛したのです。パウロはこのような称賛から語り始め、次に女性たちが礼拝の時にかぶるかぶり物を脱ぐ行動について勧めます。当時のキリスト者の中で、ユダヤ人の女性たちは外出する時、頭にかぶるユダヤ人の慣習があったそうです。ギリシャの人々や異邦人の中で貴族出身の女性たちがほとんどそのようにしたそうです。また、流行に従ってそのようにした時もあったそうです。コリントの教会の女性たちは、初めの頃は頭にかぶり物をかぶって礼拝に参加しましたが、[すべてが自由だ]という人たちの主張に影響を受け、そのかぶり物を脱いだようです。注釈によりますと、古代の女性たちは公の場所でかぶり物をかぶらないということは、道徳的にみだらな女を表すことだと考えたそうです。[自由]ということで、かぶり物をかぶりませんでしたが、ほかの人たちに良くない影響を与えたのです。

これに対してパウロはこのように言います。3節です。
[ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです]
[頭―あたま]という用語は大きく三つの意味があります。まず、4、7節に出る[頭―あたま]という言葉は、実際の人の頭を意味します。 [頭―あたま]という用語の二つ目の意味は、共同体の指導者(権威)を意味します。例えば、[全住民の頭(かしら)となろう]という時、[頭]というのは、指導者(権威)を意味します。すなわち、治めることと従うという関係が成立します。イエス様は教会の頭(かしら)であります。教会は主が治め、主の統治の中で皆が従わなければなりません。[頭―あたま]という用語の意味の三つ目は、[紀元、根源]という意味として使われます。例えば、8節に書いてありますように、[男が女から出て来たのではなく、女が男からでてきたのだ]というように [紀元、根源]の意味をします。
それでは3節の[頭]というのはどのような意味でしょうか。[権威、統治]という意味です。すべての男の頭はキリストです。すなわち、イエスキリストはすべての男を治めるお方です。女の頭は男です。すなわち、男は女を治め、女は男に従わなければならないという意味です。キリストの頭は神です。仲介者であるキリストは父なる神様に服従しました。キリストであるイエス様は父なる神様と同等ですが、人間の体を通してこの世に来られ、神様に従いました。3節は、神様が立ててくださった秩序に対して言っているのです。
その後、4節に男は祈ったり、預言したりする時に、頭に物をかぶらないように言い、5-6節に女は祈ったり、預言する時に、かぶり物を脱いではならないと言います。[祈りと預言]が出ますが、これが公の礼拝時間に行っているのかそうではないのかは意見が分けられますが、とにかく、祈ったり、預言をしたりする時に女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまう事と同じだということです。これが恥ずかしいなら、頭に物をかぶるべきだと言います。

今の時代は、頭に物をかぶって礼拝を捧げる女性はほとんどいません。カトリック教会や教派によって違うかもしれませんが、ほとんどのプロテスタント教会は頭に物をかぶりません。今日の箇所の御言葉は、今の時代と関係がないように見えます。すべての時代に渡ってキリスト者の女性が守らなければならない規則だとすれば、今の時代のキリスト者はほとんどこの御言葉を守らず生きているということになります。しかし、今日の御言葉が私たちに教えていることは、今の教会を立てることにおいて大切です。コリントの社会は、みだらな行為が多い社会でした。このような社会の中で教会が自由と言いながら、頭に物をかぶらず、公の礼拝や集まりに問題が起こることはキリストに従う正しい態度ではないという意味です。自由というのは、無秩序と放縦を意味するのではありません。
ですので、3節の御言葉は、神様が立ててくださった秩序を強調しているのです。神様が立てられた秩序を破ることは、神様に仕える正しい姿勢ではないということです。私たちはイエスキリストの中で本当の自由を与えられ、神様が与えてくださる恵みがありますが、神様が立てられた秩序もあるということを悟らなければなりません。神様が与えてくださった自由と恵みは、無秩序と放縦ではありません。
今の時代は、頭に物をかぶって礼拝を捧げていません。これはその当時の文化や常識に関するものです。しかし、必ず守らなければならないことがあります。神様が立てられた秩序です。公の礼拝や集会時はもちろん、主の教会を立てることも家庭も同じです。神様が立てられた秩序に従うことこそ、神様の御心に従うことになるのです。
これから学びますが、コリントの信徒への手紙一12-14章を見ますと、賜物と神様の愛、また教会の有益と秩序の内容が出ます。賜物や愛は、神様が主イエス・キリストを通して立てられた教会の秩序の中でその意味が現れます。コリントの信徒への手紙一14章33節に[神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちの全ての教会でそうであるように]と書いてあります。教会の平和は、神様が立てられた秩序の中で成し遂げられます。なぜ、公の礼拝に秩序がなければならないのでしょうか。神様は無秩序の神様ではないからです。コリントの信徒への手紙一14章40節に[しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい]と書いてあります。教会は、礼拝も職分も賜物も秩序がなければなりません。

11節を見てください。[いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません] [女の頭は男]だという御言葉を聞く時、不満に思う女性の方がいるかもしれません。これはユダヤ教の観点から見るとそのように思います。ユダヤ人の祈りの中でこのような祈りがあるそうです。[女に生まれなかったことに感謝する]という内容です。しかし、聖書はそのように教えません。男が先に創造され、女が後に創造されましたが、聖書は、女性が男性より劣っているとは教えません。弟として生まれても兄より劣っているのではありません。男性と女性は皆、神様の御前で同等な地位を持ち、皆神様にかたどって創造されました。ガラテヤの信徒への手紙3章28節に[ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男と女もありません。あなたがたは皆、キリストイエスにおいて一つだからです]と書いてあります。私たちはイエスキリストを通して一つとなり、皆が神様の同じ、同等な子どもです。また、エフェソの信徒への手紙5章21-23節を見ますと、[キリストに対する畏れを持って、互いに仕え合いなさい]と書いてあります。

12節を見ますと、[女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです]と言います。神様は女を男に合う助ける者として創造されました。しかし、すべての男がこの世に生まれる時、女の子宮を通して生まれます。しかし、すべてのものが神から出ているのです。男性と女性は皆、神様が創造された人間です。このような御言葉の意味を悟り、[女の頭は男]だという御言葉を理解しなければなりません。男性と女性は、神様の御前で同等な人格ですが、神様は男性から女性を創造される時、違う役割と地位、また力を与え、創造されました。男性と女性の間には、神様が立てられた秩序があるということです。この秩序を互いに尊重しなさいという意味です。互いの人格を尊重しなければなりません。神様が立てられた秩序を尊重することです。

私たちキリスト者は皆、イエスキリストの中で一つであります。皆が同等です。皆が聖徒であり、神様の子供です。互いに尊重しなければなりません。また、神様が立てられた秩序があるということをはっきり悟らなければなりません。主の教会で牧師や長老、また執事を立てられたことも神様が立てられた教会の秩序です。この秩序に従わなければなりません。立てられた職分者たちも地位、権威だけを主張し、自分勝手に何かをするのではなく、自分の役割を正しく知り、忠実に果たさなければなりません。職分を与えられたならば、神様に従い、神様が立てられた秩序を誰よりも守らなければなりません。聖徒の皆様も同じです。皆が同等で、神様が立てられた秩序を忠実に守ることです。
旧約時代に神様が立てられた秩序を守らなかった人たちがいました。ミリアムとアロンは神様が立てられたモーセに従わなかった時もあり、民数記16章を見ますと、コラ、ダタン、アビラムは神様が立てられたモーセに反逆しました。すなわち、神様が立てられた秩序に従わなかったのです。彼らに神様の審判が下りました。
このように私たちキリスト者は、神様が立てられた秩序に従わなければなりません。私たちキリスト者がどのような服を着て教会に来ても、どのようなスタイルで教会に来ても教会の公の礼拝に参加する自由がありますが、教会の秩序を崩すような行動をしてはなりません。誰でも礼拝に参加することができる自由がありますが、礼拝の秩序を壊す自由はりません。すべてのキリスト者は、神様が立てられた秩序に従うべきです。すべてのものが神様から出ているからです。お祈りを致します。

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