平和のクリスマス
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 2章8節~14節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 2章8節~14節
私たちは、歴史の中でどのような時代よりも豊かな時代に生きています。しかし、世の中で生きている人々の姿をよく見ますと、あまり平安がないように見えます。社会の中にも、また個々人の中でもこのように見える時が多いです。なぜでしょうか。色々な理由があると思いますが、何より平安を破壊する人間の憎しみ、妬みがあるからです。憎しみから争いと紛争、さらに戦争が起こります。今も、世界の色々な所で戦争が起こり、多くの犠牲者が出ています。人間の歴史は、戦争の歴史、争いと憎しみの歴史だと言われます。戦争が始まる時、統治者たちはいつも平和を言います。しかし、その内面をよく見ますと、そこには、人間の憎しみと貪欲があり、人々を支配しようとする権力欲があります。これは、今の時代だけではありません。イエス様が来られたおよそ2000年前も同じでした。もしかしたら今よりもっと残忍な時代だったかもしれません。
聖書は、人間の歴史の中でイエス様がこの世に来られたと記しています。歴史の中で、それもアウグストゥスがローマの皇帝だった時、イエス様が来られました。アウグストゥスは、BC27-AD14年までローマを統治した皇帝でした。彼は、ローマの内乱を終え、ローマの秩序を確立し、芸術と商業を発展し、国の法律が具体的に実現するようにしました。彼は強力な権力と力を持っていた人でした。彼が統治した時代を‘パックスローマ(Pax Romana)’と言います。‘パックス’という言葉は、‛平和’という意味だそうです。‛ローマの平和’という意味の言葉が、‘パックスローマ(Pax Romana)’と言います。すなわち、‛アウグストゥスの平和’ということです。このアウグストゥスの平和は、ローマに秩序を与えた平和でした。それで、アウグストゥスは、ローマの英雄でした。そのような彼は、自分自身に人々が神のように仕え、礼拝するようにしたのです。しかし、ローマの平和は、実際には、ただ一人だけの平和でした。なぜなら、人々は皆このアウグストゥスに従い、服従し、仕えなければならなかったからです。ローマ帝国の軍事力によってほかの国々、また人々は恐れと悲しみを感じる沈黙した平和でした。支配を受けた民族や弱い者の立場では、恐怖と圧制によって屈服する平和だったでしょう。世の中の平和をよく見ますと、力を持っている人がより多くの利益を得ようとする戦いの平和です。力がある人たちだけの平和だと言います。ローマ帝国の平和も同じでした。ただ一人の人、一番高い地位を得た人に自由があり、被支配者は血を流さなければならない平和でした。しかし、そのような時代に平和が訪れ始めました。それは、イエス様が世に来られ、与えてくださった平和でした。ローマ帝国が与えた平和と全く違ったのです。
今日は、読みませんでしたが、ルカによる福音書2章7節に[初めての子を産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです] 泊まる場所がなくて、動物のフンとしこのにおいがする小屋でお生まれになった平和の王であるイエス様は、ローマ帝国の皇帝であるアウグストゥスと比較されます。一人は絶え間なく高くなろうとする平和でしたが、イエス様の平和は、どん底まで低くなろうとする平和だったのです。最高の権力者の平和がアウグストゥスの平和だったとすれば、イエス様の平和は何の力もない赤ちゃんのような平和でした。ローマの皇帝は恐れを感じるような存在でした。しかし、イエス様がこの世に来られた時、イエス様に対して恐れを感じる人は誰もいませんでした。ローマ帝国が造った平和は、自分たちに反対する人を十字架の上で殺すと脅かしながら立てた平和でした。
イエス様が与えてくださった平和はどのような平和でしょうか。
この世に人間の体を通して来られ、苦難を受け、十字架の死を迎えながら人々の罪を赦し、平和を与えてくださいました。弱い者たちにも与えられる平和です。差別がなく誰にでも与えられる平和です。
この世は、力によって立てられる平和、また目に見える豊かさと楽な生活ができる平和だけを求める時が多いです。その結果、多く持っている人はあまり持ってない人を蔑視します。力ある人は力がない人を無視します。これらの平和は、ローマ帝国が認める平和と同じです。しかし、イエス様が与えてくださった平和とは、一番小さい人から与えられます。イエス様が与えてくださった平和は、世の価値観と全く違う平和です。貧しく弱い人や無視される人、また蔑視される人々を通してイエス様の平和は実現されました。何の力もない処女であるマリアを通して神様のお働きが始まったのです。このようにイエス様の平和は、強力なローマ帝国が自慢する平和を変えられました。
世の人々は、多く持っている人や力がある人、地位が高く名声の高い人の側に属そうとします。なぜなら自分に利益が与えられるかもしれないからです。しかし、イエス様は神様の愛を持って貧しく弱い人と共にいてくださいます。また、悲しく寂しい人と共にいてくださいます。さらに、病気にかかった人や罪人のように蔑視される人、すなわち疎外された人たちと共にいてくださいます。イエス様はこのような人たちの中に入り込むために低くなってくださいました。もし、イエス様が低くなってくださらなければ、そのような人は神様の平和を味わうことができたのでしょうか。誰一人も自分の力で、自分の行いによってこの平和を与えられたと言わないように神様はご自分を一番低くしてこの世に来られ、私たちに平和を与え、その平和を実現されたのです。この平和こそ、神様のプレゼントです。
神様であられるイエス様は、力がない人間、また、幼子としてこの世に来られたのは、何を意味するのでしょうか。多くの侮辱を受けたということを意味します。創造者である神様が被造物として一番低くなったということです。そして、一番貧しいところでお生まれになり、自分の全てを捨てられたということです。それで、ある人はこのことに対してこのように言ったそうです。‛これは神様の勇気だ。神様はご自分の栄光と尊貴など。すべてを捨てられ、罪人である私のような者のために来られたのは、ただ神様が私を愛されたその愛のためだ’
簡単なことではありませんが、愛というのは自分が持っているすべてを捨てることだと言います。例えば、既得権、物質や地位、また名誉、さらに自分を犠牲するようにします。これが愛の力です。
聖徒の皆様。
主であるイエス様がこの世に赤ちゃんとして来られました。泊まる場所がなくて、一番貧しいところである小屋でお生まれになり、飼い葉おけに寝かせられました。このようになさった理由は、私たちを愛されたからです。一番貧しく弱い人の助けとなるために、また私たちを神様の子供とならせてくださるために、私たちに再び永遠の命を与え、希望を与えるためでした。さらに、神様の子供としてこの世に生きる間、どのような環境に置かれても挫折せず、天の御国を仰ぎ見ることを教えるために来られたのです。
クリスマスというのは、神様が全てを捨てられ、一番弱い人間を通して私たちに来られ、私たちを愛し、私たちに再び天の希望と救いの喜びを与えるために来られた出来事です。イエス様がお生まれになった時は、本当の平和もなく、希望もありませんでしたが、イエス様を通して人々の心が生まれ変わりました。そして、今は、ローマ帝国は完全に滅亡されましたが、神様を愛し、神様の平和を与えられた人々を通して新しい歴史を、すなわち、イエス様が実現された本当の平和と神様の愛の歴史を作り、今の時代に神様が喜ばれる信仰の歴史を記して生きているのです。イエス様がおられないならば、平和はありません。また、この世が言う平和と全く違う本当の平和は、主イエス・キリストから与えられます。本当の平和というのは、救い主として来られたイエス様を心から受け入れ信じる時、与えられるのです。
一番低くなり、弱い人となりこの世に来られ、一番弱くて貧しい人、さらに疎外されている人に本当の平和を実現されたイエス様のように、私たちも目を見回して、そのような人たちにクリスマスの平和であるイエス様を伝えましょう。また、クリスマスに来られた本当の平和であるイエスキリストと共に、消えてしまうこの世ではなく、永遠に生きる天の御国に希望を置き、感謝と喜びをもって力強く生きていきましょう。
[いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ]
