その日を待つ信仰
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 ネヘミヤ記 33章14節~18節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ネヘミヤ記 33章14節~18節
今日からアドベントに入りました。アドベントは、[来る、到着]という意味です。
空港や駅で、人が来ること、到着することを待つように私たちに再び来られると約束されて主イエス・キリストを待つ期間がアドベントです。
私たちキリスト者が主を待つという時、まず一つ目の意味は、およそ2000年前にこの世に来られた主イエス・キリストのお誕生を待つということです。二つ目は、この世に来られた主が私たちの心の中に、また私たちの人生と歴史の中に御言葉と霊として新たに臨在してくれることを待つのです。
三つ目は、主が約束された通りに終末の時、再び来られる栄光なる主を待つということです。
キリスト者の人生を一言で言いますと、[待ち続ける人生であり、待ち続ける信仰]だと言えます。
人類は、長い間この世にメシアとして来られる主を待ちました。長い間待っていたメシアが来られてからは、再び来られる主を待ちながら生きています。しかし、ただ待つのではなく、切なる思いで、忠実に主を迎える準備をしながら待たなければなりません。
愛しく大切な人を約束の場所で待つように希望を持って主を待たなければなりません。
このような姿勢で待ち続けると、いつ主が来られてもすぐに救い主を迎えることができるでしょう。
しかし、主が来られることに関心がなく、ほかの事だけに集中しすぎると、主がいつ来られるのかを知らないのはもちろん、来られても準備ができなかったので、喜びで迎えることもできません。
今日の御言葉は、預言者エレミヤが宣言した預言の御言葉です。
エレミヤは、バビロン帝国の脅威の前に大きな危機に置かれていた母国に向かって、神様の御言葉を宣言した預言者です。
預言者エレミヤの宣言は大きく二つです。
一つ目は、バビロン帝国と戦わず、降伏しなさいという宣言です。
バビロン帝国の侵略は、政治的な理由ではなくユダヤの民を審判される神様の御心なので、その御心に従い、バビロン帝国に降伏するならば、多くの被害はないということです。
しかし、エレミヤの宣言は受け入れられず、逆に大きな反発を引き起こしました。そのことによってエレミヤは獄舎に拘留されるようになりました。
エレミヤのもう一つの預言は、憐れみ深い神様がユダヤの民を回復されるという宣言です。
今日は、33章全体を読みませんでしたが、33章6節以下を見ますと、神様は時が満ちるとバビロンに連れて行かれた民が戻って来るようにしてくださり、ユダヤの町々とエルサレムを建て直され、繁栄を回復してくださるという預言です。
ユダヤの民は、この希望を持って再び回復される時を待ちながら生きなければなりませんでした。
このように信仰者が待ち続けるということは、神様の約束の御言葉を信じ、どのような環境の中でも諦めず、希望を持って待たなければなりません。
今日読みました御言葉も回復の宣言の御言葉の一部です。ただ、今日の御言葉は、70年後のユダヤの回復だけの御言葉ではなく、神様が送ってくださるメシアを通してすべてを回復されることを宣言しています。
すなわち、ダビデの子孫として来られるメシア、主イエス・キリストを預言した御言葉です。
旧約聖書には、神様がこの世を救うためにメシアを送ってくださると預言者たちを通して何度も預言されています。
その預言の一つが今日の箇所です。
私たちは、イエス様のお誕生を待つアドベントにこの世に来られたイエス様の恵みを覚え、救い主、主イエス・キリストに対する強い信仰を持たなければなりません。そして、再び来られる主を信じる信仰によってこの世で大胆に生きなければなりません。
それでは、私たちはどのような姿勢でイエス様を待つべきでしょうか。
まず、14節です。[見よ、私が、イスラエルの家とユダヤの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主が言われる]
この御言葉は、バビロン捕囚から解放されるという約束の御言葉だけではありません。
このすべての地を救うメシアを送ってくださるという約束の御言葉です。この約束の御言葉が成し遂げられる時を待ちなさいということです。
先ほども言いましたが、私たちキリスト者が待つということは、約束の御言葉を信じて待つということです。神様の命令によって箱舟を造ったノアは、長い期間待ちました。時間も長いし、待ちながら箱舟を作る作業もとても大変で苦しかったです。多くの人があざ笑いました。
また非難を受け、侮辱をされました。このような状況の中で時間が経つのならば、ノアの信仰は弱くなる可能性もあったでしょう。
しかし、ノアが人々からのあざ笑いと非難、また侮辱をされましたが、信仰を守り、最後まで神様に従うことができたのは、絶対に変わらず、必ず成し遂げてくださる神様の御言葉を堅く信じたからです。
ノアだけではなく、信仰の先祖たちは皆、神様の御言葉が成し遂げられると信じて待ち続けていたのです。
ヨブは、とても大切なことを失ってしまいましたが、その苦しみの中でも神様の憐れみと導きを疑わず、神様の時を待ちました。
ダビデはどうでしたでしょうか。王になると油を注がれましたが、自分を殺そうとしたサウロ王から長い間苦しみを受け、逃げ回って荒れ野や山で生活をし、神様の時に満ちると、イスラエルの王となりました。
パウロも初代教会の信仰の先祖たちも皆が神様の約束の御言葉が成し遂げられると信じ、その時を待っていました。このように待ちながら信仰の勝利を受け、神様の大きな恵みを与えられたのです。
神様が私たちに約束された一番大きな恵みの御言葉は、メシアを送ってくださるという約束の御言葉です。
その御言葉は創世記から始まります。
創世記3章15節、[お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く]
また、イザヤ書7章14節に[見よ、おとめが身ごもって、男を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ]
また、ミカ書5章1節に[エフラダのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる]
このような預言の御言葉通りにメシアは、この世に人間のイエスとしてお生まれになりました。人間を罪と永遠の死から救うメシアに対する約束は、神様が約束された最高の恵みの約束であります。
その最高の約束を信じ、待ち続けている人は救われ、祝福を受けるのです。
アドベントを迎えた私たちはもう一つの主の約束の御言葉を覚えなければなりません。それは何でしょうか。
使徒言行録1章11節の御言葉です。[ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる] 再び来られる主の約束を心から信じ、主を待ちながら生きなければならないという御言葉です。約束された御言葉は、必ず成し遂げられると信じる信仰を持って待つと、神様の大きな慰めと恵みが与えられると信じます。
この祝福が与えられるように心から願います。
15節を見てください。[その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める]
先ほども言いましがが、神様はこの地とすべての人間の救いのためにメシアを送ると預言者を通して約束をしてくださいました。
その約束通りにおよそ2000年前にイエス様がお生まれになりました。
しかし、そのメシアはダビデの子孫としてお生まれになりと言います。実際にメシアであるイエス様はアブラハムとダビデの子孫として、ダビデの故郷であるベツレヘムでお生まれになったのです。
このような過程を通してイエス様がお生まれになりました。このようなことがなぜ重要なのでしょうか。
なぜなら、メシアであるイエス様は、旧約の預言の御言葉が成し遂げられるように神様が送ってくださったお方だからです。
どんなに優秀で、大きな力も持っていたとしても他の人間をメシアと信じてはいけないからです。
例えば、洗礼者ヨハネは、悔い改めを叫び、多くの人に洗礼を授け、イスラエルの民に支えられ、尊敬される預言者でした。
人間の目で見ると、この人こそ神様が送ってくださったメシアではないかと思うでしょう。
しかし、彼はメシアではなく、メシアである主の道をまっすぐにするために使わされた声でした。
すなわち、主の働きを準備する人でした。
このように私たちが信じ、待っているメシアは、ダビデの子孫からお生まれになった主イエス・キリストだけです。イエス・キリストだけが神様の御計画の中で、神様の摂理と約束通りにこの世に来られた救い主だからです。
使徒言行録4章12節にこのように書いてあります。[ほかのだれによっても、救いは得られません。
私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです]
16節を見てください。[その日は、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、「主は我らの救い」と呼ばれるであろう] この約束の御言葉が成し遂げられる日には、ダビデの子孫であるイエスキリストを通してすべての人類は救われ、平安に生きる道が開かれます。世の人々は、この約束の御言葉を信じ、メシアであるイエス様を受け入れなければなりません。
メシアとして来られたイエス様だけを信じる人には、救いの喜びが与えられるのです。
神様の約束を信じ、また再臨の主を待つ人には、神様の子供として神様の御国で永遠に生きる祝福が与えられます。
ノアもヨブも、またダビデも多くの苦しみや苦痛が多くありましたが、神様の約束の御言葉を堅く信じ、最後まで信仰を守ったので、それぞれに神様の大きな恵みと祝福が与えられたのです。
正しい信仰を持ち、イスラエルが慰められることを待ち望んでいたシメオンという人は、聖霊のお告げを受け、赤ちゃんのイエス様に出会い、[主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です]と神様を賛美し、救いの感激と喜びを歌いました。
この世で生きるということは、待つということです。
愛する人を待つ、新しい命が生まれることを待つ、またその子供が大きく成長することを待ちます。さらに、その子供が平和の家庭を作るのを待ちます。特に聖徒は、神様の約束が成し遂げられることを切に待ちます。また私たちの祈りが成し遂げられることを待ちながら神様の恵みと祝福を待ちます。
人生の中で一番可哀そうな人生は、待つことがない人生だと言われます。
いくら辛い日々が続いたとしても喜びの日が必ず、訪れることを待つこと、また希望の日を待つことは幸せな人生です。
私たちキリスト者の人生は、とても幸せな人生です。なぜなら、神様が約束された天の御国入る希望の日が来るのを待っているからです。
また私たちを救ってくださった救い主が再び来られる日を待ち、その主と永遠に生きる喜びを待っているからです。
さらに、天の御国で神様に与えられる報いを期待し、待っているからです。このようなことを待っている信仰者は、多くの苦難や試練を乗り越えることができます。また日々自分を低くし主に仕え、人々に仕えることができます。
さらに何かあっても主が歩んで行かれた道を最後まで歩むことができるのです。
今日は、アドベントの最初の主日です。
神様の約束通りにこの世に来られ、私たちのために十字架に死なれ、復活された救い主であるイエス様を覚えましょう。また再び来られる主を待つ信仰を持って皆が栄光なる御国に入る喜びが与えられるように切に願います。
