私たちが避けなければならないこと
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 10章14節~22節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 10章14節~22節
先週の話を覚えていますでしょうか。パウロは、イスラエルの先祖たちがエジプトから出て、カナンの地に向かっていた時の出来事、すなわち彼らの失敗した歴史とその理由について話しました。その後、パウロはコリント教会の聖徒が彼らに与えられた自由を誤解し、濫用した時起こった偶像崇拝について警告しました。また、彼らに力強く、[偶像を礼拝してはいけない]と勧めました。今日の御言葉は、その内容の続きです。14節にこのように始まります。[私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい]
最初の部分をもう一度見てください。[私の愛する人たち]と呼んでいます。パウロが強く警告しながら勧めた理由は、コリント教会の聖徒を愛しているからです。彼らを心から愛しているので、パウロは心を痛めながら彼らの間違っている信仰の姿を指摘し、彼らがそのように歩んではいけないと道を立ちはだかっているのです。
愛の反対は何でしょうか。無関心です。相手に対する愛がなければ、何の関心もありません。相手が今悩んでいるか、苦しんでいるか、喜んでいるか、悲しんでいるか、幸せに過ごしているか、また、教会に来ても来なくても関心がありません。さらに、愛がなければ、間違っていると知っていても違うと言いません。苦言や忠告、また話さなければならない話をしません。なぜでしょうか。ぶつからないようにしたいからです。しかし、パウロは自分が愛す聖徒たちとぶつかっても滅びの道を歩まないように苦言や忠告などの警告をしているのです。[私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい]
[偶像礼拝を避けなさい] というのは命令です。これは、コリント教会の聖徒たちが偶像に献げる供え物を通して悪霊の仲間になるということです。[避ける]という原語の意味は、注釈によりますと[早く走って逃げる]という意味だそうです。また命令形で今すぐにその場所から早く走って逃げるということだけではなく、続けてそのようにしなさいという意味です。偶像と断絶しなさいという意味です。
パウロはすでに7節で[偶像を礼拝してはいけない]と勧めました。イスラエルの先祖たちは荒れ野で偶像崇拝をしてしまい、神様の審判を受けました。彼らに従ってはならないと言いました。この世には、特に私たちが住んでいる日本の地には、多くの偶像があります。私たちキリスト者はこのような偶像の文化の中で生きているのです。ですので、私たちはパウロが警告した[偶像礼拝を避けなさい]という勧めに耳を傾けなればなりません。偶像が私たちを支配するようにしてはなりません。
15節を見てください。パウロは[私はあなたがたを分別ある者と考えて話します。私の言うことを自分で判断しなさい]と言います。‛分別ある者’というのは、コリント教会の聖徒たちの中にギリシアの哲学的な思考を持っている人が多くいたので、そのような人たちは、パウロの教えを受け入れないという意味です。
本当にどのような人が知恵ある人か、分別ある人かということを見分けるためには、神様の御言葉をどのように受け入れるのかということを見ると分かります。神様の御言葉を聞き、神様の御言葉を悟って御言葉に従う人こそ、知恵ある人、分別ある人です。先週の箇所で、パウロはイスラエルの先祖たちが偶像崇拝したことについて言い、また今日の14節に[偶像礼拝を避けなさい]と言いました。本当に知恵ある人、また分別ある人は偶像礼拝を避ける道を歩むのです。
パウロは聖餐式に参加することと偶像崇拝に参加することを言いながら神様に仕えることと偶像に仕えることは一つとなることはできないと教えます。
まず、16-17節は聖餐式についての内容です。
[私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです] 主イエス・キリストを救い主と告白し、信じる人は、聖餐式に参加します。杯を飲み、パンを食べます。杯を飲むことは、キリストの血にあずかることです。血は、キリストの贖いの死を意味します。すなわち、キリストの血によって私たちが救われたのです。
パンを裂くということは、キリストの体にあずかることです。主イエス・キリストは、私たちのために十字架につけられました。そのパンは、祝福のパンです。
17節を見ますと、パウロはパンは一つだと言います。聖餐式には多数の人が参加します。しかし、聖餐式に参加する人々は、皆、一つのパンを食べます。一つのパンはイエスキリストを意味します。これは十字架の上に死なれたキリストだけを通して私たちが神様の救いを与えられるということです。また、一つのパンであるイエスキリストを通して皆が一つとなるのです。頭であるイエスキリストの体となります。ですので、私たちは感謝を持って聖餐式に参加しなければなりません。教会はこのような共同体です。
18節を見てください。イスラエルの民の捧げものと祭壇のたとえを通して説明します。[肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか]
レビ記を見ますと、祭司は神様に捧げられた捧げものの一部を食べます。また一部は一緒に参加した人々が分けて食べます。これは、この儀式に参加した人々は神様と聖なる交わりをし、また人々が互いに交わりを享受するということを意味します。聖餐式に参加したということはキリストによって交わりをし、一つとなったという意味をします。
19節は、偶像と偶像に供えられた肉について言います。[私は何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか]
偶像は人が作ったものであり、歩くことも動くこともできず、何の力も命もありません。もちろん神様もありません。
ですので、捧げるものを受け入れることもできません。私たちはこの世にある偶像が何かをまずはっきり理解しなければなりません。それぞれの国には、それぞれの偶像がたくさんあります。金や銀、また石や木だけではなく動物も崇拝しています。またそれに仕え、様々な供え物を捧げようとします。昔も今も多くの偶像が立てられ、また偶像崇拝をしています。
しかし、これらをよく見ますと、神様が造られた自然や天地万物です。また、人の手で作ったものです。しかし、20節を見ますと、偶像に献げる供え物は、神様ではなく悪霊の仲間になることだと言います。すなわち、偶像崇拝ということは、悪霊の働きだということです。偶像そのものは何の力もないですが、偶像崇拝をするという背後には悪霊がいるということです。私たちは偶像崇拝の実体を悟らなければなりません。使徒言行録16章を見ますと、パウロとシラスがフィリピで、牢に入れられる出来事が出ます。その理由は何でしょうか。
占いの霊に取りつかれている女奴隷を癒したからです。占いも悪霊の働きです。このように偶像に供え物を献げることは、霊的な問題があるということです。
20節の後半部分をもう一度見てください。[私は、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません] 偶像崇拝に参加してはならないということです。偶像への礼拝は、悪霊の仲間になる道に歩むということです。
21節を見てください。パウロは偶像崇拝をしてはならない理由について教えます。[主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません]
皆様。
主イエス・キリストによって救われ、主の杯を飲み、主の食卓に着いて神様と聖なる交わりを享受する人がどうしたら悪霊の杯を飲み、悪霊の食卓に着くことができるのでしょうか。絶対にそんなことはないという意味です。
どのような食卓に着いているのかを見ると、その人がどのような人なのかが分かります。
悪霊は、主が来られる日、主によって必ず審判され、永遠の刑罰を受ける存在です。
ヨハネの手紙一3章8節にこのように書いてあります。[悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです] 主の聖餐に参加するキリスト者が偶像崇拝をすることを神様が喜ばれないということを教えます。
22節を見てください。[それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。私たちは、主より強い者でしょうか] 悪霊の食卓に着く人に対して[主にねたみを起こさせるつもりですか]と書いてあります。エジプトから救い出されたイスラエルの民が偶像崇拝をした時、申命記32章21節にはこのように書いてあります。[彼らは神ならぬものをもって私のねたみを引き起こし、むなしいものをもって私の怒りを燃えたたせた。それゆえ、私は民ならぬ者をもって彼らのねたみを引き起こし、愚かな国を持って彼らの怒りを燃えたたせる]
偶像崇拝に参加するということは、このような道に進むことです。22節に[私たちは、主より強い者でしょうか]と言っています。神様がお怒りになるならば、誰でも手を負えません。耐えられません。
主の聖餐に参加する私たちキリスト者は、この偶像崇拝の罪から自分を守らなければなりません。神様の子供となった私たちは、神様の子供としてふさわしく生き、主の聖餐に参加する人として正しく生きなければなりません。
主の聖餐に参加するということは、その時間だけ参加することではありません。
日々の中で神様の契約の民として呼ばれ、救われた人として神様と共に、また主の中で神様が喜ばれる道を歩むのです。
