倒れないよう気をけつるがよい
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 10章1節~13節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 10章1節~13節
猿も木から落ちるという諺を聞いたことがあると思います。
このことわざの意味は、自分が得意としていることも、また成功した経験があるとしても傲慢過ぎると、大きな過ちをし、危機に落ち込む時があるという意味です。
信仰生活も同じです。[私は数十年間、長い間信仰生活をしてきたし、教会についてよく知っているので、信仰生活をするのは問題がない]と自信満々になるならば、信仰の大きな危機が訪れるかもしれません。
私たちは、信仰の先輩たちが受けた恵みと彼らの失敗を通して教訓を得なければなりません。
今日の御言葉は、イスラエルの民の歴史を通して私たちが偶像崇拝と誘惑をどのようにして避けるべきなのかという事について教えます。
パウロは今まで、多くの賜物を与えられ、また多くの知識を持っていたコリント教会の聖徒たちに勧めました。
彼らは、それらを自慢しながら肉体は、救いに関して何の影響も与えないと思い、みだらな行いをし、異邦人の偶像崇拝に参加しました。
パウロは彼らの間違っていた信仰生活を指摘し勧めたのです。
続けて今日の御言葉は、洗礼と聖餐が自分たちの救いを保証すると言いながら体を通して何をしても救いには何の問題はないと思っている人々に勧め、彼らの間違っている信仰を指摘しています。
洗礼と聖餐、聖晩餐は、そのものが救いを保証することではないという事です。それで、12節にこのように言います。[だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい]
今日の御言葉は、エジプトから救い出されたイスラエルの民の歴史を通して私たちキリスト者がどのような信仰生活しなければならないのかを教えます。
1-2節を見てください。[兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ]と書いてあります。
雲というのは、旧約を見ますと、神様の臨在を意味します。
イスラエルの民がエジプトから出てカナンに導かれる時、神様は雲を通してイスラエルの民を導いてくださいました。
雲は、神様の導きを表します。パウロは、キリスト者の洗礼をイスラエルの民がエジプトから救い出され、雲の下におり、皆、海を通り抜けだと言います。しかし、1節を見ますと[私たちの先祖]と書いてあります。
コリント教会の聖徒は、ほとんどギリシア人の聖徒でした。異邦人としてキリスト者となった人が多かったのです。
パウロは、旧約時代の民がコリント教会の聖徒の[先祖]だと言います。
しかし、これは肉体の血統があるという意味ではありません。旧約の神様の民は、新約のキリスト者と連続線上にあるということを意味しているのです。この先祖皆が、雲の中、また海の中で洗礼を受けました。
さらに3節を見ますと、皆が同じ霊的な食物を食べました。この食物は何でしょうか。
荒れ野で神様が与えてくださったマナです。天から降った食物です。また、4節には、[皆が同じ霊的な飲み物を飲みました]と書いてあります。[皆、同じ]という単語が繰り返して書いてあります。
この飲み物とは、神様がモーセを通して岩から水を出るようにしてくださいました。
この水を飲みました。その岩をキリストだと言います。パウロは、イスラエルの民が食べたマナと岩から出た水を聖餐式でのパンとぶどう酒だと説明しています。霊的な食べ物と飲み物だという事です。
エジプトから救い出されたイスラエルの民は、神様の恵みを受け、享受しました。
しかし、5節はこのように書いてあります。[しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました] 多数、ほとんどの人が神様に反逆する行動をしたのです。
彼らは神様の怒りによって荒れ野で滅ぼされてしまいました。荒れ野が彼らのお墓となりました。
すなわち、神様が約束されたカナンの地に入ることができませんでした。エジプトから出てカナンの地に向かっていたイスラエルの民が全て救われたという事はできません。
色々な聖書箇所を探してみても彼ら全員が救われたという事ははっきり言っていません。
この出来事を通して、すばらしい神様の御業を経験し、天からの霊的なマナと霊的な水を飲んだにもかかわらず、荒れ野で神様の審判によって滅ぼされた人々を見なさいという事です。
洗礼を受け、聖餐式に参加したとしても自分勝手に生き、神様に反逆する罪を犯すならば、神様は彼らを空しい人生を送るようにするという教訓なのです。神様が人間を救ってくださった目的があります。
その目的を忘れてはなりません。コリントの信徒への手紙二6章1節にこのように書いてあります。[私たちはまた、神の協力者としてあなた方に勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません]
6節を見てください。[これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです。
彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために] パウロは、エジプトから出たイスラエルの民に起こった出来事を通して、コリント教会の聖徒の間違っている信仰と自分自身を振り返ってみなさいと勧めているのです。
それでは、イスラエルの民が犯した罪は何でしょうか。
まず、6節を見ますと、悪をむさぼることでした。すなわち、悪を楽しみながら行ったという事です。
また、7節を見ますと、イスラエルの民は偶像崇拝をしました。出エジプト記32章6節を見ますと、民は、金の子牛を作り、民は座って飲み食いし、立っては戯れたと書いてあります。
また、8節を見てください。イスラエルの民はみだらな行いをしたという事が分かります。
モアブの娘たちに従って背信の行為をし始めました。民数記25章9節を見ますと、このことによって神様が災害を与えたので2万4千人が死にました。また、9節を見ますと、彼らはキリストを試みる罪を犯しました。それで彼らは蛇にかまれて滅びました。
最後に10節を見てください。
[彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。
不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました] イスラエルの民は、いつも神様に不平不満を言ったのです。それである人は、“イスラエルの民の歴史は、不平不満の歴史だ”と言ったそうです。
11節を見てください。
この出来事が書き伝えられた理由は、[時の終わりに直面している私たちに警告するためなのです]と書いてあります。
私たちは、旧約のイスラエルの民を見ながら私たちを振り返らなければなりません。
コリント教会の聖徒の中には、このような罪が入っていました。ほとんどのコリント教会の聖徒は、子どものような未熟な信仰を持っていた人でした。エジプトからカナンの地に向かって行ったイスラエルの民も同じく子どものような信仰だったのです。
成長できなかった民でした。神様の民である私たちは、このような道に従ってはなりません。
7-10節を見ますと、コリント教会の聖徒に勧めている御言葉は、エジプトから救い出されたイスラエルの民と関連して与えられました。
7節には、[偶像を崇拝してはいけない]と書いてあります。
8節には、[みだらなことをしないようにしよう]と書いてあります。
9節には、[キリストを試みないようにしよう]、また10節には、[不平を言ってはいけない]と書いてあります。
このように厳重に警告しています。私たちは、このように書き伝えられた内容を心の中に刻み、神様が喜ばれない道を歩んではなりません。
知恵ある人は、聖書が教えてくれる警告を心から悟り、神様が喜ばれる道を考え、その道を歩んで行くのです。
パウロは、このような警告の言葉を勧めてから、12節にこのように言います。[だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい] 高慢について警告しています。
自分自身が立っていると思う人は、倒れないように気をつけなければなりません。
自由があると言いながら罪を犯す道に進むならば、それこそ、滅びの道に進むことなのです。
終末の時を生きている私たちキリスト者は、毎日倒れないように気をつけなければなりません。その方法は、神様の御言葉を通していつも自分自身を振り返ることです。
このように警告してから慰めの言葉も言います。13節を見てください。
[あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。
あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます]
この世で生きている私たちキリスト者は試練を受ける時があります。
[試練]というのは、罪に対しての誘惑を意味することもできるし、様々な形の苦難を意味します。
今日の御言葉では、偶像を崇拝すること、みだらな行いをすることもキリストを試みること、また不平を言うことと関係があるでしょう。しかし、どのような試練も神様の御手の中にあります。
神様はそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。
神様は真実なお方であります。神様はご自身が結んでくださった約束を必ず、守ってくださり、ご自分の民には必ず、恵みを与えてくださいます。
ですので、私たちはこのような神様を仰ぎ見、また固く信じ、頼りながら忠実に神様が与えてくだった御言葉に従わなければなりません。
そうすれば、真実な神様はどのような形の試練が訪れても倒れず、私たちが耐えられるように、また逃れる道をも備えてくださいます。
しかし、立っていると思う人は倒れてしまうのです。
私たちは立っていると思うのではなく、自分を低くし、真実な神様に頼る人とならなければなりません。
神様はそのような人を認め、最後まで倒れないように導いてくださいます。
