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2025年11月02日「神様の御心で」

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 8章1節~13節

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神様は天地万物をお造りになり、そのすべてを神様と共に享受する人を創造されました。しかし、愚かな人間は、神様の愛より目に見えることに心を奪われ、神様から離れてしまったのです。しかし、神様は人間の堕落を見ながらも人間を愛されました。それで、独り子をこの世に送ってくださり、その独り子にすべての罪を負わせ、人類の罪を贖うようにされました。
父なる神様に無条件的に従順した御子は、神様の深い愛を知っていたので、そのまま従順し十字架を背負ってすべての人類が救われる道を開いてくださいました。
誰でも主イエス・キリストを信じるならば、神様の御国に入る恵みを与えてくださったのです。
神様の限りない愛を受け、贖いの恵みを受けたにもかかわらず、人間は自分の欲望によって堕落し、神様の代わりに偶像を造り、それを崇拝し神様に反逆してしまったのです。残念ながら信仰者さえ、神様と偶像との線を引くことができませんでした。

コリント教会が立てられた当時、このように偶像に仕える人が溢れていました。それで、コリント教会は、偶像に供えられた肉、食べ物のために多くの問題が起こったのです。過去にはユダヤ教を信じていましたが、キリスト者になった人々は、絶対にその肉、食べ物を食べてはいけないと主張しました。
一方、グノーシス主義の影響を受けた人々は、すでにキリスト者になったからどのような行動をしても何の問題もないと主張しました。
この二つの意見が衝突してしまい、コリント教会は道を失ってしまいました。問題を解決することができなくなったコリント教会の聖徒たちは、この問題についてパウロに尋ねたのです。
パウロはこれに対してどのように答えたのでしょうか。
一言で言いますと、パウロは神様が願っておられることを悟るならば、解決できると言っています。
すなわち、イエス様がこの世に来られた理由と神様が教会を立てられた理由について悟るならば、偶像に供えらえた肉や食べ物をたべても良いのか、それとも食べてはならないのかを自ら知ることができるという事です。

当時、偶像に供えられた肉や食べ物は、すべて処分していましたが、偶像に供えられた肉や食べ物の量がとても多かったので、すべて処分しきれず、残りは市場で販売されたそうです。
このようになった過程を通して当時、どれくらい霊的に堕落していたのかよく分かることができます。もちろん、市場で売られていた肉全てが偶像に供えられたものだとは言えませんが、区別することが難しかったでしょう。
それで、コリント教会の聖徒たちは、偶像に供えられた肉や食べ物を買わずに、食事を用意することができませんでした。
偶像に供えられた肉や食べ物を買おうとすれば、信仰の良心が赦されない、買わないと家族の食事を用意することが難しかったのです。
偶像に供えられた肉や食べ物についてのこの悩みはコリント教会の聖徒たちに大きな問題となりました。

この話を聞いたパウロはまず、このように言います。2節から3節を見てください。
[自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです。
しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです] どのような意味でしょうか。
パウロは神様の御言葉をただ知識だけで知っていると、その知識は神様の深い御心を悟ることには役に立たないという事です。
すなわち、神様の御心を知っている人は、知識で信仰生活をすることではなく、日常生活の中で、御言葉に従い、実践しながら神様を愛して生きるので、神様に知られているという意味です。神様の御心を正しく知っている人は、外面的で知識的な信仰生活ではなく、神様の愛の中で、神様の愛を表す信仰生活をし、神様が願っておられる信仰生活を通して神様の栄光を表す人生を生きます。
また、神様はこのような人を愛し、共にいてくださるのです。
私たちがこのような信仰生活をするならば、この世の中で多くの神々、また偶像があったとしても天地万物をお造りになり、救いの恵みを与えてくださった唯一の神様だけを信じると確信します。

主イエス・キリストの御業は、魂の救いのためです。
この主イエスキリストを心から信じる聖徒は、絶対に偶像崇拝を許しません。なぜなら、人間の犠牲だけを求める偶像と魂の救いのためにこの世に来られ、犠牲されたイエス様は全く違うからです。本当の信者は自分が仕えている対象が誰なのかを知っているので、偶像に騙されません。
ですので、偶像に供えられた肉や食べ物だとしても神様を正しく知っている聖徒は、その偶像に供えられた肉や食べ物に対する心配と恐れなどの思いを持っていません。
すべての食べ物は神様が与えてくださるので、感謝しながら食べると問題はありません。
しかし、信仰の弱い人や神様についてはっきり知らない人は、神様は神様の子供のためにすべての食べ物を与えてくださるという事を信じずに、偶像に供えられた肉や食べ物だという事だけに信仰の良心が弱くなり、罪意識を持ち、悩むのです。
キリスト者の中でも偶像に供えられた肉や食べ物について霊的な恐れを感じ、罪意識を持っている人もいます。
しかし、石や木など。神様がお造りになったもので造った偶像に恐れを感じるという事は、神様がどのようなお方なのかについて確信がないからです。エレミヤ書10章を見ますと、神様を信じない異邦人は、森から切り出された木片を木工がのみを振るって造ったものだと、また金銀で飾られ、留め金を持って固定され、身動きもしない、畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので、運ばれて行く。
またそれは幸いをもたらすこともできないので恐れるなと書いてあります。

にもかかわらず、人々は神様より目に見える偶像にもっと恐れを感じ、その偶像が自分の家や家族に悪いことをするということに恐れを感じ、崇拝しているのが現実です。しかし、木と石、また金銀はすべて神様がお造りになったものです。
被造物を持って造った偶像を崇拝する前にそれらを創造された神様を知り、神様を悟るならば、偶像というのは恐れることではないという事が分かるでしょう。
この世の全ては神様がお造りになった被造物です。神様が唯一の創造主であります。
この神様の子供としてこの信仰を持って生きるならば、私たちは恐れることもなく、神様がお造りになったすべての食べ物は感謝しながら食べることができるのです。
9-10節を見てください。[ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。
知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろか] 成熟した聖徒は、偶像に供えられた食べ物を食べても試みに合いません。
しかし、未熟な聖徒がその姿を見ると、正しい信仰が何かと悩むならば、その聖徒のために食べてはなりません。
なぜなら弱い人が滅びてしまうからです。キリストはそのような兄弟のためにも死んでくださったのです。
また、弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことになるからです。
ですので、パウロは兄弟をつまずかせないために、今後決して肉を口にしないと言ったのです。

神様は、世の何より魂が救われることを願っておられます。
その神様の御心を知っていたパウロは、魂の救いのためならば、決して肉を食べないと言いました。
パウロも神様の御心のように魂の救いのために自分の全てを注ぎました。
神様を信じる私たちも神様の御心に従い、何より魂の救いのために自分自身を節制し、すべての自由が与えられてもそれに対して気をつけなればなりません。

恵み深い全知全能の神様の愛と主イエスキリストを通して救われた私たち聖徒は、神様の御国に入り、またすべての自由を与えられ、何も恐れることがありません。しかし、信仰の兄弟姉妹が私たちの行動や言葉によって弱い良心を傷つけるならば、彼らの信仰のために、彼らをつまずかせないように節制する必要があります。
彼らが成熟した信仰となるまで待たなければなりません。
彼らも成熟した信仰を持つのならば、彼らと共に神様が与えてくださった素晴らしい恵みを享受し、神様の御心にふさわしい人生を生きると信じます。イエス様が私たちの信仰が成熟するまで忍耐してくださったように私たちもまだ信仰の弱い兄弟姉妹の成長のために忍耐し、彼らの成長のために心から祈り、支えていきましょう。
神様が与えてくださったすべての食べ物を感謝しながら、また神様の御心に適う信仰の成長がある私たちになりましょう。

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