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2026年05月10日「死で終わらない病」

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聖句のアイコン聖書の言葉

11:1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11:7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11:8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
11:9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11:11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11:12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11:13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11:14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11:15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
11:16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 11章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

【序】
人は誰でも死を迎えます。私たちの人生の最後には死が待ち受けているのです。生きている私たちの中で、誰も死を体験したことがないために、私たちは死に恐れを抱くのだと思います。そして出来れば、この「死の問題」から目をそらしながら生きているのではないでしょうか。「死の問題」が自分とは全く関係ないかのように、あたかも現在という時が永遠に続くかのように自分を騙して生きているのではないでしょうか。しかし私たちは、年を重ね、次第に衰えていく弱い肉体と向き合いながら、病や痛みを抱え、一日一日確実に死に向かっているのです。そのような私たちに対し、イエス様は本日の箇所で一つの「しるし」の備えをしておられます。そのしるしとは、御自身が死の権勢に打ち勝つ力を持っておられることを示す決定的なしるしであります。本日もヨハネの福音書11章を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 昼のうちに歩けば、つまずくことはない
1~3節をご覧ください。
“ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。”
ベタニアのマルタとマリアの姉妹は、イエス様ととても親密な関係にありました。彼女たちは、自分たちの家を解放し、時にはイエス様と弟子たちを宿泊させ、食事を提供したりして仕えていました。2節に「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」とありますが、詳しくはこの後の12章に記述されています。ラザロとは、そのマリアとマルタの兄弟であります。前の章の10:40に書いてありますように、この時イエス様と弟子たちは、石打ちにされそうになったエルサレム神殿の回廊から脱出し、ヨルダン川の向こう側、かつて洗礼者ヨハネが洗礼を授けていた場所に滞在していました。この場所はヨルダン川向こうのベタニアであると考えられます(1:28)。少し紛らわしいのですが、イエス様一行が滞在されていた場所もベタニアであり、マルタとマリアたちがいた場所もエルサレムに近いベタニアでありました。巻末の地図6をご覧ください。死海の左上にエルサレムを確認できますでしょうか。エルサレムのすぐ右隣りにベタニアという町を確認できます。そしてヨルダン川向こう側の地、ベレア地方にもベタニアという町があるのを確認できます。このベレア地方のベタニアが、洗礼者ヨハネが洗礼を授けていた場所であり、イエス様一行がこの時滞在されていた場所でありました。この場所から、西側のユダヤ地方のベタニア迄歩いて一日ほどの道のりでありました。ラザロが重い病にかかってしまったため、マルタとマリアはイエス様のもとに使いの者を送り、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたのであります。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。彼女たちは使いの者を通して「今すぐ来てください」とは言いませんでした。もしかしたらエルサレムにおいてイエス様が当局者たちと衝突したという知らせを聞いていたため、そこまで突っ込んで言うことを躊躇したのかもしれません。イエス様は伝言を聞いて次のようにおっしゃいました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
「この病気は死で終わるものではない」という言葉を聞いた時、弟子たちは、「この病気はそれほど深刻なものではない」と理解した可能性があります。そしてイエス様は意図的にさらに二日間、そこに留まることにいたしました。ところが5節と6節と読み進んで行きますと明らかに文章のつながりが矛盾しているように見えます。ご覧ください。
“イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。”
イエス様はマルタとマリヤとラザロを愛しておられたなら、病状がどうであれ、なぜ今していることを一旦中断して、急いでベタニアのラザロのもとに向かわなかったのでしょうか?この点については、後でもう一度考えてみたいと思いますが、結局、二日間とどまってからイエス様は「もう一度、ユダヤに行こう」と7節で言われます。「ユダヤに行く」とは、即ちラザロのところに行くという意味であります。そして、それは同時に殺意に燃えたユダヤ人たちの只中へ赴くということを意味していました。これを聞いた弟子たちはイエス様に、ユダヤ行きを思いとどまらせるため“ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。”と進言しました。弟子たちは、イエス様の身を案じているようでありますが、実際には自分の身を案じていたのでしょう。彼らは心の中で「飛んで火に入る夏の虫」とは、まさにこのことだ!と思っていたに違いありません。そんな弟子たちにイエス様は次のように語られました。9~11節をご覧ください。
“イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」”
イエス様は、ラザロが既に死んでいることを聖霊によって悟っていました。そして死んだラザロを蘇らせるために行くのだと仰っておられるのです。そのしるしによって神の栄光が表わされるためです。9節の「世の光」とは、主イエスを指し示しています。そして昼の明るさとは、私たちに対する神の召し、神の導きを意味しています。ですから、「昼のうちに歩く」とは、「神の召しを信じて歩く」という意味です。神の召しを信じて歩けば、つまずくことはない。この世の光であられる主イエスを見ているから」という意味になります。反対に「夜に歩く」とは、どういう意味でしょうか。神の召しを信じず、自分の人生を自分がイニシアティブを持って生きていくという意味です。そのような人は必ずつまずいてしまいます。その人の内に主イエスがいないからです。私たちは、日々の生活の中で何をするにしても、神の召し、神の導きを信じて歩んでいるでしょうか。もし信じているなら、多少、苦難や試練が訪れたとしても、私たちの現在地が、日々祈り続けて導かれたところであることを確信し、苦難の中でも忍耐することができ、つまずくことがないのであります。一方で、もし私たちが自分の人生のハンドルを自分で握りしめている場合、苦難や試練が訪れた時に、神の助けは得られず、結果として苦難や試練から逃げるという行動を取ることになるでしょう。頑なに自分が人生のイニシアティブを持とうとするなら、自分がハンドルを握りしめるなら、それはすなわち自分の判断に信頼し、すべての責任を自分が負うという仕方ですから、いつの間にかイエス様を見失い、結局、つまずくことになるのです。私たちは神の召しに信頼し昼のうちに歩かなければならないのです。

【2】. 死に打ち勝つしるし
さて、イエス様の御言葉の教えにも拘わらず、弟子たちはイエス様の仰ることが何のことかさっぱり分かりませんでした。12~14節をご覧ください。
“弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。”
イエス様は「眠る」ということばによって、ラザロの死を語っていたのですが、弟子たちは文字通りそのまま受け止めていました。死について、この世の人々は時々「眠る」という言葉で表現いたします。聖書も同じでありまして「眠る」という言葉が、死を指し示す表現として、しばしば使用されています。例えば、旧約聖書のダニエル記12:2には次のように書かれています。
“多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。”
新約聖書からも例を挙げると、Ⅰテサロニケ4:13~14です。調べてみましょう。
“兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。”
イエス様が死を「眠る」と語ることが出来るのは、やがての日に起こすことが出来るからだと思います。つまりイエス様は死の権勢を打ち破り、死んだ者を復活させる者として、死を「眠る」と語ることが出来るのです。「ラザロを起こしに行く」とは、死んだラザロを蘇らせに行くということを意味していました。そのことをまだ理解できない弟子たちに、イエス様ははっきりと仰います。「ラザロは死んだのだ。」これまでイエス様は御自身が永遠の命であることを、さんざん弟子たちに語って来られました。そのことを考えますと、弟子たちの、聖書とイエス様に対する理解があまりにも乏しく、あまりにも無理解であると言わざるを得ません。例えばヨハネ3:15をご覧ください。
“それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。”
これはイエス様がニコデモ語った言葉です。次に4:14をご覧ください。
“しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」”
これはサマリアの女に語った言葉です。次に6:35をご覧ください。
“イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。”
これは空腹だった群衆を満たしてくださった時に語った言葉です。最後に10:10です。
“盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。”
これは仮庵の祭りの時に譬えを通して語った言葉です。そして、本日の11章のラザロを蘇らせるしるしによって、命を与えるイエス様の究極的な力を示そうとされておられるのです。本文に戻りまして11:15をご覧ください。
“わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。”
「その場」とは、ラザロが病の中にあって、今まさに死に瀕しているその場所であります。それではラザロはいつ死んだのでしょうか。11:17を見ますと「墓に葬られて既に四日もたっていた」とありますから、そこから逆算することができます。使いの者が往路としてイエス様の滞在されている所に到着するのにまず一日かかっています。知らせを聞いた後、イエス様は二日間そこに滞在されました。それから一日かかるベタニヤへの復路に出発しました。これだけで四日間かかっています。ということは、使いの者がベタニアを出発して間もなくラザロは息を引き取ったと推測することが出来ます。使いの者がイエス様に「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えた時には、既にラザロは死んでいた可能性が高いのです。先ほど保留した質問がありました。「イエス様はなぜ、今していることを一旦中断して、急いでベタニアのラザロのもとに向かわなかったのか?」ということですが、その理由は神の導かれる時ではなかったからであります。イエス様のなされる業とは、決して御自分がイニシアティブを持って御自分のしたいことをされるというのではなく、信仰によって御父の御業をなされるということでありました。つまりイエス様は御父からゴーサインをいただいて初めて動くことができるのです。それでは、神の時とはいつなのか?ということですが、神の栄光が最大限に現れる時であります。ラザロの蘇りが、主イエスが死の権勢を打ち勝つ力を持っておられることを示すしるしとなる時であります。その時に、ゴーサインが出されるのであります。
ところで、イエス様が死人を蘇らせる奇跡というのは、他の福音書を見ますと、会堂長ヤイロの娘の奇跡(マタ9:18-26、マコ5:41-42、ルカ8:40-56)ですとか、ナインのやもめの息子の奇跡(ルカ7:11-17)などがあります。これらも驚くべき奇跡ですが、死んでからすぐの出来事であって、これらの箇所を昏睡状態であったのが、息を吹き返しただけに過ぎないと解釈する人もいます。しかし、ラザロの奇跡の場合は、そのように解釈することは出来ません。墓に葬られて既に四日も経過し、その遺体は腐り始めていたからです。死人を蘇らせる奇跡の中で、ラザロの奇跡が群を抜いていると言わざるを得ないでしょう。
後になって、使徒たちがラザロの蘇りの奇跡を、イエス・キリストの復活の光の中で、再び思い起こした時、彼らの心の中に次のような信仰が結実していきました。それは、「肉体の死とは単に安息にすぎず、言ってみれば一時的な眠りに過ぎなかったんだ」ということです。「死は一時的な通過点に過ぎない。その先に復活があるんだ」ということです。使徒たちの内に、朽ちることのない復活の体が与えられるという復活信仰が、結実していったのです。
【結論】
本日の内容をまとめます。病の先にある死というものが、すべての終わりではありません。死んだらお終いではありません。イエス様はそのことを教えるために今、ラザロのよみがえりのしるしをなされようとしています。イエス様は死の権勢を打ち破ってくださったお方です。この方にあって私たちは、やがての日に永遠に死ぬことのない復活の体が与えられるのです。この方にあって私たちは、希望の中を歩んでいくことが出来るのです。

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