良い羊飼い
- 日付
- 説教
- 川栄智章牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 10章11節~21節
10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
10:19この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
10:20多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
10:21ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 10章11節~21節
【序】
譬えの中で御自身が羊飼いであると語られた主イエスは、本日の箇所で「私は良い羊飼いである」と言い直しています。「良い羊飼い」、英語の聖書では、I am the good shepherd と書かれています。このgoodという言葉、ギリシア語でκαλὸςカロスという言葉ですが、聖書の中で神様の品性を表す時にしばしば用いられる言葉です。普通は「良い」と翻訳されますが、時には、美しい(創世記6:2、39:6、民24:5、イザヤ27:2)ですとか、好ましい(民24:1、詩編135:3)ですとか、真実な(ロマ12:17、2 コリ8:21)とも訳される大変含蓄のある言葉です。御自身が、雇い人の羊飼いから区別されて、良い羊飼い、美しい羊飼い、真実な羊飼いとされるその理由は、羊のために命を捨てるからであると書かれています。羊のために命を捨てること、それは御父の御心でもありました。本日もヨハネ福音書10章の御言葉を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。
【1】. 神への犠牲の献げ物
11~13節には、良い羊飼いであられるイエス様が、御自身の羊の群れをどのように牧して下さるのかが語られていますが、その中心は「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ということです。雇い人は羊のために命を捨てることはありません。自分の命の方が大事だからです。しかしイエス様は御自身の羊のために御自身の命を犠牲にしてくださいます。「命を捨てる」という言葉が本日の箇所で(11節、15節、17節、18節と)四度も出てまいりますが、そこにイエス様の羊に対する並々ならぬ熱意と情熱を感じ取ることができるのであります。14~15節をご覧ください。
“わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。”
イエス様は羊を名前で呼ぶほどに一頭一頭のことをよく知っておられます。羊飼いと羊の譬えによって御自身と御自身を信じる者たちとの親密な愛の関係を示してくださっているのです。ここで私たちは「知る」という言葉に注目していただきたいのですが、旧約聖書においてイスラエルが神と契約関係を結んでいることを描写する際に「知る」という言葉がよく用いられました。例えばエレミヤ書31:34をご覧ください。
“そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。”
主なる神は、イスラエルの罪を再び心に留めることなく、その時には、子供も大人も皆、主を知るようになると書かれています。契約の民イスラエルは、やがての日に子供も大人も主を知る知識で満たされるのです。続いてホセア書6:6をご覧ください。
“わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。”
主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物ではなくて、神様を知ることだと書かれています。つまり律法の行いではなく、神様と交わり、神様を知ること、そのことを願っておられるのです。羊飼いを知るとは、契約の中に入れられていることを意味するのです。
さらに羊飼いと羊の親密な愛の関係は、御父が御子を知っておられ、御子が御父を知っているのと同じであるとまで、イエス様は言われました。つまり御父と御子の愛の関係が、そのままイエス様と羊である私たち教会との関係に当てはまると言うのであります。皆様もご存じのように改革派教会では、契約神学を非常に大切にしています。契約神学が予定論の根幹をなしているからです。そもそも契約神学とは何かと申しますと、神様が宣言された次の約束が、聖書全体に貫いていると見る神学であります。その約束とは「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」このみ言葉です。「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」、聖書の中に何度も出てくるこのフレーズは、まさに神の契約を一言で言い表していると言えるでしょう。ヨハネの黙示録21:3-4節途中まで調べてみましょう。
“そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。”
ここにも約束のフレーズが出てきますね。「人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となる」と書かれています。続いて本日お読みしました、旧約聖書のエゼキエル書37:23~24にも、やはりこのフレーズが出てきます。ご覧ください。
“彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。”
ここにも「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」というフレーズが出てきますね。換言すれば、「彼らは私を知っており、わたしは彼らを知っている」と言い換えることが出来ますし、或いは「彼らは私の声を聞き分け、わたしは彼らの名前を知っている」と言い換えることも出来るでしょう。主御自身の民は、永遠の昔から予定されていて、彼らは罪を洗い清められ、一人の牧者の導きの中で、一つの群れを形成していくのです。
「わたしの僕ダビデは彼らの王となる」とありますが、預言者エゼキエルが預言した時代には、すでにダビデは死んでいましたから「ダビデのような人物が彼らの王となる」という意味であります。イエス・キリストこそ、神がイスラエルに約束された一人の牧者であり、ダビデのように民を統治する王であるということです。ヨハネの福音書に戻りまして10:16節はスキップし、17~18節をご覧ください。
“わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」”
イエス様はここで、迫りくる御自身の死を明らかにしています。これを聞いて弟子たちが嘆き悲しみ、パニックに陥ることがないように、死の直後に続く復活のことについても語っていると解釈することが出来るでしょう。ヨハネの福音書には共観福音書に出てくるような所謂、「受難告知」と呼ばれるものは出てきません。『人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡され、殺されて、三日目に復活する』という定型文のことです。しかし今お読みした17、18節は、受難告知に相当するような御言葉だと思います。ここで重要なことは、イエス様の十字架の死が御父からの掟、御父からのご命令であるという点であります。ですから十字架の死とは、決して暴力によって悲運な死を遂げたものだとか、想定外のアクシデントだったということではないのです。18節に書かれているように、誰もイエス様から命を奪い取ることはできないのであり、イエス様がご自分で自発的に命を捧げられるのであります。つまりイエス様の死とは、永遠の聖定の中で定められた神への犠牲の献げ物であったということです。イエス・キリストが傷のない小羊として捧げられ、御自身の民の罪の刑罰を代わりに担われ、そして御自身の命によって罪の代価を贖ってくださったのです。私たち教会は、贖い主キリストの中で、罪の洗い清めがなされ、神との交わりが回復されるのです。贖い主キリストの中で羊は豊かに生きるものとされるのです。余談になりますが、当然、この福音書の執筆者であるヨハネを始めとして弟子たちはこの時点ではまだ、そのことを理解することができませんでした。しかし、後ほど、イエス様の復活の後に聖霊が注がれてイエス様の十字架の死の意味を悟るようになったのです。弟子たちの心の中にかつて語られたイエス様の御言葉が燃えるように思い起こされたのです。十字架につけられ、死なれ、栄光を受けられたキリストが、まさに彼らの福音そのものでありました。使徒たちはキリストの復活の証人として、この福音を宣べ伝えていったのであります。イエス様がくぎ付けにされたあの十字架の木とは、まさに創世記の3章以来、人間の目に遮られていた「命の木」であったということです。十字架刑は、ローマ市民には許されない極刑でありましたから、ギリシャ人にとって十字架のイエスとは、大変愚かなものに見えるのであります。一方で律法には、木に架けられた者は呪われた者だと書かれているため、ユダヤ人にとって十字架のイエスとは信仰のつまずきとなりました。しかし、この十字架を仰いで、福音を信じる時に罪人は命を得るのであります。
【2】. 公同の教会
さて、先ほどスキップしました16節をお読みしたいと思います。
“わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。”
この個所は、イエス様が御自身の十字架の死と復活の出来事の後のことについて語っているものと思われます。「この囲いに入っていない他の羊」とは、ユダヤ人社会に属していない異邦人のことです。イエス・キリストは復活後に福音がユダヤ人社会の枠を超えて、全世界のあらゆる人々に宣べ伝えられるよう弟子たちに命令されました。こうして良い羊飼いであられるイエス様の統治のもと、羊は集められ、養われ、導かれ、神様との幸いな交わりに入れられるのです。そして一つの群れを形成するわけですが、この群れというのが、私たちが普段告白している使徒信条の中の「公同の教会」、「普遍的教会」のことを指しています。そもそも教会とは主イエスの御声を聞き分ける群れでありますから、主イエスを頭として一つなのであります。しかし実際、私たちは地域教会である津島教会に属していますので、「公同の教会」、「普遍的教会」と言われてもなかなかピンときません。ですが、私たちがこの世で生を全うし、天国に召された時に、公同の教会の素晴らしさを実感することになるでしょう。そこでは国の壁は取り除けられ、民族の壁、言葉の壁さえ取り除けられています。天国において公同の教会は、勝利の教会であり、長子たちの大集会として、歴史上のすべての聖徒たちの霊と交わりができるだけでなく、天使たちとも交わりをすることができるようになるのです。ヘブライ人の手紙12:22~24をご覧ください。
“しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。”
そこでは聖徒たちの間で言葉は一つに統一されているのです。もう外国語を勉強する必要はありません。この天の交わりは、すべての選ばれた民が新しいエルサレムに集められた時に完全に成就します。その時、御自身のすべての羊が一人の羊飼いのもと集められ、一つの群れをなすように祈ったイエス様の思いが完全に成就されるのです(ルカ15:4、ヨハネ17:21)。そして、その時、全ての聖徒たちはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを悟るようになり、アブラハム、イサク、ヤコブと共に一つの祝宴の席に着くのであります。イエス様はこのような将来のビジョンを眺めながら、今まさに良い羊飼いとしての使命に情熱を傾けて御父から受けた命令、すなわち十字架の道に進まれようとされているのであります。
イエス様は十字架と復活によって、良い羊飼いの使命を完全に全うされました。そして復活後にペトロと弟子たちに現れて、「私の羊を飼いなさい」と三度、言われました。主の弟子である私たち教会も、実は「私の羊を飼いなさい」というこの命令を受けているのです。主イエスを大牧者として、私も、そして津島教会に集っている皆様方も、良い牧者、美しい牧者、真実な牧者として、イエス様の御足に続いて行かれるよう召しを受けているのです。こんなことを言われると、自分は牧者として何をすればいいのかと戸惑う人もいるかもしれませんが、私たちは牧者であり、同時に羊として、ただ主の御声に聞き従えばそれで良いのであります。私たちにできることは御言葉に聞き従う以外に何もありません。私たちが御言葉に聞き従い、祈りを共にし、主から受けた恵みを分かち合い、私たちの教会の美しい交わりの中に、一人でも多くの魂が加えられるよう主に祈り求めていけばそれでいいのです。
先週、私の牧師就職式があり、式の後、茶菓を囲んで遠くからお越しくださった方々との交わりがありました。その交わりは大変美しい聖なる交わりでありました。私自身その交わりの中で大きな慰めと励ましを受けました。宣教は神御自身がなされます。私たち教会はただそれに参与するという形で用いられるだけであります。主が津島教会を祝福してくださり、神に献身する魂お一人おひとりを主が豊かに用いられることをお祈りいたします。
【結論】
本日の内容をまとめます。良い羊飼いであられるイエス様は、御自身の羊に対して並々ならぬ熱意と情熱を持っておられました。なぜなら、福音がユダヤ人社会の枠を超えて、全世界のあらゆる人々に宣べ伝えられ、御言葉を聞き分ける羊が一つの群れとなり、アブラハム、イサク、ヤコブと共に一つの祝宴の席に着くというビジョンを持っておられたからです。イエス様のこのビジョンは、教会を通して現在も進行しております。私たちの聖なる美しい交わりに、一人でも多くの魂が加えられるように心を一つにしてお祈りしていきましょう。
