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2026年06月28日「主のみ腕は誰に示されたか」

主のみ腕は誰に示されたか

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 12章36節b~50節

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聖句のアイコン聖書の言葉

36イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
37このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
38預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
39彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
40「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
41イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
42とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。
43彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
44イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
45わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
46わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
47わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
48わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
49なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
50父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 12章36節b~50節

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【序】
36節の後半部分で、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」とあります。もうこれから後、イエス様は群衆の前でお話をなさることはありません。再び群衆の前に現れるのは、イエス様が十字架に架けられる日、金曜日であります。ですから本日の37~50節は、著者ヨハネによるこれまでの総括であり、結論的な要約であると言えます。本日もヨハネの福音書12章を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 主の御腕は誰に示されたか
37節をご覧ください。
“このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。”
イエス様はこれまで、人々の前で多くのしるし、つまり奇跡を行ってきました。ヨハネ福音書の中で「しるし」として表現するのは、イエス様の語られた一つ一つの御言葉や、イエス様の行われた一つ一つの奇跡が、御自身について来るべきメシアであることを証ししているからです。要するにイエス様の奇跡というのは、奇跡それ自体が目的なのではなく、その方が油注がれた方・メシアであることの「しるし」としての意味合いを持っているとヨハネは主張するのであります。多くのしるしを彼らの目の前で行われたのにも拘わらず、彼らは信じなかった、ヨハネはそう総括しているのです。そしてそれは、旧約聖書の預言書に記されていることの成就でもありました。38節と40節においてかぎ括弧で引用されている部分は、イザヤ書の53章とイザヤ書6章からの引用であります。イザヤ書53章と言えば、皆様もよく御存知のように、「苦難の僕」としてイエス様が受けることになるご受難を極めて細部まで描かれている箇所ですね。そのイザヤ書53章の冒頭の言葉を引用して「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」とヨハネは記述しているのです。旧約聖書に約束された、来るべきメシアが到来したのに、結局、誰もメシアであることを証ししている「しるし」を受け入れませんでした。38節の「主の御腕」という言葉の注釈において、アウグスティヌスは、それは天地の創造に関与された御子御自身であると解釈しています。そうかもしれません。人々はナザレのイエスを一人の青年としては見做しても、創造に関与された御子御自身と見做す者はいなかったということです。約束のメシアと見做す者はほとんどいなかったということです。或いは、主の御腕とは「主イエスの栄光」という意味なのかもしれません。あの十字架上で表された贖いの御業の栄光であります。十字架上で表されたあの栄光を、聖霊を受けた弟子たちを除外して、多くのユダヤ人が悟ることは出来ませんでした。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」という預言が、イエス様がこの世に来られた時にまさに成就したのです。続いて12:39~41節をご覧ください。
“彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。”
こちらの引用箇所はイザヤ書6章からの引用です。イザヤ書6章と言えば、預言者イザヤの召命の箇所であります。ウジヤ王が死んだ年、すなわち紀元前8世紀半ば頃、イザヤは幻の中で、天にある御座に主が座しておられるのを見ました。御使いのセラフィムには六つの翼がついていますが、その内の二つの翼で顔を覆い、二つの翼で両足を覆い、残った二つの翼で飛びながら、主ヤハウェを賛美していたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。その栄光は全治に満ちる」と。
この光景は一言で言えば恐ろしい光景であったと言えるでしょう。なぜなら、御使いでさえ顔を覆うほどの主ヤハウェの栄光を、罪ある人間が直接見てしまったからです。この時、人間からはるかに超越しておられるお方の前にイザヤは独り立たされていたのです。イザヤは次のように言いました。イザヤ書6:5です。
“わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」”
イザヤがこのように言うのは無理もありません。するとその時、セラフィムの一人が祭壇の燃え盛る炭をイザヤの唇に触れさせてくださり、聖めてくださいました。イザヤの罪を取り除いてくださったのです。そして主の御前にあっても滅びることなく、立つことが出来るようにしてくれました。ヨハネ福音書によると、この時、イザヤはイエスの栄光を見たのだと言います。主はイザヤに次のように語られました。イザヤ書6:8~10をご覧ください。
“そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」”
この個所でイザヤは南ユダに遣わされる預言者としての召命を受けるのですが、興味深いことにイザヤの召命というのは、御言葉を語ることによって、民が恵みを受け、悔い改めの実が結ばれて、教会を大きく成長させるというような召命ではありませんでした。サクセスストーリーが約束された召しではなかったのです。「語っても彼らは理解しない、見ても彼らは悟らない」、その働きのために預言者イザヤは召されたのでありました。実はウジヤ王の統治末期、南ユダ王国は軍事的にも、経済的にも、ダビデ・ソロモンの時代に次ぐ繁栄を謳歌していました。そのような中、ユダヤの民は誰も預言者の御言葉に耳を傾けようとはしなかったのです。語れど、語れど、民は頑なになる、そんな召命を受けたイザヤはどのように応答したのでしょうか。「自分が生きている間に、預言者として成功できないなんて、そんなの嫌です」とは言いませんでした。主の栄光の只中で、恐らく主の御前に跪いてひれ伏しながら、その召しに応え、イザヤは歩み始めたのです。イザヤが見た主イエスの栄光があまりにも素晴らしかったので、イザヤは困難で試練の多い、その召しに従って行くことが出来たのだと思います。このイザヤが直面した民の頑なさとは、やがて750年後にメシアがこの世に与えられた時に、ユダヤ人が取る態度を予表するものでありました。イザヤ書に記録された民の頑なさが、イエス様の時代においてまさに成就したと著者ヨハネは語っているのであります。

【2】. 隠れクリスチャン
ヨハネの福音書に戻りまして12:42~43をご覧ください。
“とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。”
サンヘドリンの議員の中にもイエスを信じる者は多かったとヨハネは報告しています。しかし議員たちの信仰について、どちらかと言えばヨハネは懐疑的に、そして否定的に見ているようです。43節に彼らは神からの誉れよりも、人間からの誉れを好んだとありますが、この「誉れ」という言葉は、先ほど出てきたイザヤの見たイエスの「栄光」と同じ言葉であります。議員たちは会堂から追放されることを恐れ、神からの栄光よりも、人間からの栄光を好み、信仰を公に言い表すことをしなかったと言っているのです。私はこの個所を読んで「隠れクリスチャン」というのは、特定の時代に限らず、いつの時代にも存在するのだと思いました。なぜ、隠れクリスチャンになるのでしょうか。それはキリストへの信仰を公に告白する時に、必ずと言っていいほど苦難を自分の身に招くことになるからだと思います。皆様に置かれましても、自分がクリスチャンであることを公けにした時に、或いは、日曜日は礼拝を献げるため、仕事に出ることが出来ないなどと言った時に、周りから白い目で見られたり、理不尽な扱いを受けたりしたことはないでしょうか。もし、私たちがイエス様との交わりに生きようとするなら、必ず、周囲との摩擦、周囲との軋轢が生じ、理不尽な取扱いを受けることになるでしょう。しかし、イエス様のゆえに、それらの不便に甘んじるなら、そのような苦難に甘んじるなら、それこそ、まさに真の信仰なのだと思います。密かに、隠密に、個人的な信仰生活を送ろうとする「隠れクリスチャン」の態度は、決して真の信仰ではありません。つまり、信仰とは、心の中だけでイエス様を信じていればそれでOKということではないということです。信仰とは口で言い表すことが重要であり、それに伴う試練をも甘んじることが信仰なのであります。クリスチャンはイエス様と密接に結合されているために、クリスチャンの人生は自然に、キリストを証しするような人生を歩むようになります。イエス様の生涯が、苦難を通して栄光に入れられたように、キリストの体である私たちキリスト者も、この世においてはなぜか苦難を通して栄光に入れられるようになるのです。そのようにして皆様の人生にキリストの姿があぶり出されていくのであります。使徒言行録14:22をご覧ください。
“弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。”
パウロは、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言っています。初代教会の弟子たちはイエス様の栄光を見、体験したので、主の復活の証人として世に大胆に証しして行く訳ですが、彼らの内、ある者は、カタコンベと言われる地下の墓地を住み家としなければならないほどひどく抑圧されました。ある者はローマ当局に捕まえられて拷問を受け、ある者はライオンの餌となったのであります。真の信仰とは、御言葉に服従すること、そして御言葉の従順に伴う苦難をも甘んじながら、それでもなおキリストの御足に従って行くことなのであります。

【3】. 御言葉が、終わりの日にその者を裁く
続いて12:47~48節をご覧ください。
“わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。”
イエス様は、私は世を裁くためではなく、世を救うために来たと言われました。確かにイエス様が初臨された目的は、世を裁くためではなく、救い主として世を救うために来られたのであります。しかし、御言葉を聞いても守らなかったり、イエス様を拒んで御言葉を受け入れなかった者に対し、終わりの日に御言葉それ自体が彼らを裁くだろうと語っておられます。なぜなら、イエス様の御言葉とは、父なる神がキリストを通して語ったお言葉であるからです。そしてその裁きとは何なのかと言えば、イエス様から遠く離れるようにされるということです。イエス様にある神の国から追放されるということです。先週の説教の中で、十字架の御業によりこの世の支配者であるサタンが追放されたということを学びました。終わりの日の裁き、最後の審判とは、御言葉を守らない人々、御言葉を受け入れない人々が、神の国から追放されるということです。彼らは神の栄光よりも、人間からの栄光を好むからです。彼らは神の国から追放されることよりも、会堂から追放されることを恐れるからです。人は健康が与えられ、経済的にも豊かに守られている場合、たとえ御言葉に対し不信仰であっても、しばらくの間はどうにかやっていけるでしょう。そのような人は専らこの世の関心事に没頭してしまいます。しかし、やがての日、主が再臨して、霊的な神の国がいよいよ目に見える形で実現する時に、彼は証人台に立たされて、生けるものと死ねる者を裁かれる主に対し、なぜ御言葉を軽んじたのか、なぜ救い主のしるしを受け入れなかったのか、申し開きをしなければなりません。彼はその時初めて、イエス・キリストの御名が高く上げられていて、天上のもの、地上のもの、地下のものすべての王として君臨していたことを悟ることになるのです。その時初めて、この世が全てではないということ、永遠の世界があるのだということを悟ることになるのです。その時初めて、なぜクリスチャンが、一生懸命に共に集まり、共に赦し合い、共に愛し合おうとしていたのかを悟ることになるのですが、既に時遅しなのであります。

【結論】
本日の内容をまとめます。イエス様を信じるということは、ただ心の中で信じるということではありません。信仰を公に告白することによって、身に招くかもしれない苦難をも甘んじると言うことです。御言葉を守り、御言葉に服従することであります。主の御腕は、イエス様の栄光は、私たち教会に現わされ、今日も神様は変わらずに、イエス様にあって世の全ての人々を救いに招いておられます。神の憐みが注がれ続けている今、この時に、私たちクリスチャンは、御言葉に服従し、互いに愛し合うこと、互いに赦し合うことを熱心に努めてまいりましょう。そしてまだ、イエス様を受け入れていない魂に福音を語り続け、神の御前にとりなしていく者たちとならせていただきましょう。

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