【序】
本日の箇所は、群衆に対するイエス様の最後の教えとなる個所であります。この次にイエス様が群衆の前に現れるのは、十字架に架けられることになる金曜日のことですから、イエス様は最後の教えとして、今しばらくの間、機会がある内に、「光のあるうちに歩きなさい」、「光を信じなさい」、「光の子となりなさい」と言われました。光とはメシアであられる主イエス御自身のことです。本日もヨハネの福音書12章を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。27節をご覧ください。
【1】. 人の子は上げられる
“今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。”
「心騒ぐ」とは、心が思い乱れることを意味します。かつて主イエスは、病人に手を触れるだけで病を癒されました。お言葉一つで悪霊を追い出し、お言葉一つで波と風を静められたその方が、一体何によって心を思い乱されると言うのでしょうか。それは、十字架刑が御父によって定められていた御業であり、十字架上で、全人類の犯した罪をすべて御自身が一身に担うため、その重荷と重圧に耐えておられることを意味しているのだと思います。イエス様の十字架刑は、決して偶発的に起こった死ではありませんでした。イエス様の十字架刑とは、罪に対する御父の裁きを、御自身が代理となって引き受けられるということを意味し、そのことに対し呻き、心を騒がしているのです。「心を騒がす」というこの言葉は、実は以前、ラザロが葬られた場所に案内してもらう際にも出てきましたので調べてみましょう。11:33、34節です。聖書協会共同訳でお読みします。
“イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。”
あの時、ラザロの死を悲しむ者と一緒に涙を流してくださったイエス様が、心騒がせたのは、ラザロの葬りとラザロ復活が、御自身の十字架の死と復活に重ね合わせるようにして迫ってきたからであります。イエス様は平常心を保つことが出来なかったに違いないのであります。ですから本日の12:27節は、神学者たちによりますと、ヨハネ福音書の「ゲツセマネの祈り」として位置付けられています。ゲツセマネの祈りが描写されているマタイによる福音書26:39をご覧ください。
“父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに”
たとえヨハネの福音書には、「ゲツセマネの祈り」は出てきませんが、迫りくる「十字架の時」のために苦悩されているのが、まさに本日のこの個所だと言えるのであります。そして27節の最後の「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」という言葉は、ゲツセマネの祈りにおいて「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られた言葉に相当すると言えるでしょう。ゴルゴタの十字架へと向かわれるその道は、決して平たんな道ではありませんでした。イエス様は人間としてあらゆる試みを受けながら死の力と格闘し、ついにその闘争の結末として、栄光を獲得されたのであります。その時、天から不思議な声が聞こえて来ました。ある人は雷が鳴ったのだと言い、他の人は「天使がこの人に話しかけたのだ」と言いましたが、その声をはっきり聞き取った人は、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」という声が聞こえてきたと言うのであります。イエス様は、その声について次のように解説なさいました。30~32節をご覧ください。
“イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。”
これから再び現わされることになる栄光とは、イエス様御自身のためではなく、あなたがたのためだと言われます。そもそも神の栄光は、独り子が受肉して、人となり、この世に来られたという点において現わされました。つまりイエス様の存在そのものが、既に神の栄光の現れであると言えるのです。しかし御父は、「再び」という言葉を付け加えています。再び栄光を現そうと言われます。その栄光とはどのような栄光かと言いますと、この世の支配者が追放されるという栄光です。そして、一粒の麦が地に落ちて死ぬという栄光であり、豊かな実りが結ばれるという栄光です。もっと言えば、主イエスを信じるすべての人を御自身のもとへ引き寄せるという栄光です。つまり「再び栄光を現す」とは何のことかと言うと、イエス様の十字架の死によってもたらされる栄光のことを言わんとしているのです。
32節の「上げられる」という言葉に注目してください。この「上げられる」という言葉には、二つの意味が内包されています。ポジティブな意味とネガティブな意味でありますが、ポジティブな意味とは、高く、天の御座にまで上げられ、神の右に着座するという意味であります。ネガティブな意味とは、十字架刑に吊るされるという意味であります。「高められる」という意味と「吊るし上げる」という意味、この二つが「上げられる」という言葉に内包されているのです。それでは、31節の、この世の支配者が追放されるとはどういう意味でしょうか。この世の支配者とはサタンを意味します。聖書は、王であるキリストと、キリストの国があることを教えていますが、一方で悪い霊どもの王国があることも教えています。その国は組織だっており、その頭であるサタンは、聖書の中で色々な呼び方をされています。例えば、告発する者(黙示12:10)、奪う者、簒奪者(マタ13:28)、ベルゼブル(マタ10:25)、悪霊の頭(マタ9:34)、空中に勢力を持つ者(エフェ2:2)、世の支配者(ヨハ12:31)、この世の神(2コリ4:4)、竜(黙示12:9)、年を経た蛇(黙示20:2)などであります。ですから「この世の支配者が追放される」とは、このサタンが、イエス様の十字架の死によって、決定的な致命傷を負うということが語られているのです。もちろん、最後の審判は依然として訪れていませんが、十字架の御業によって、サタンと悪霊どもは、もはや獄の中に拘束された獣のようになったのであります。ユダの手紙6節をご覧ください。
“一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。”
どんなにサタンと悪霊どもが大きな力を持っていたとしても、彼らは既に獄に拘束されています。十字架の出来事によって、罪が清算され、罪が拠り所としている死の力が完全に打ち砕かれてしまいました。私たちの罪に対する刑罰を、身代わりに引き受けてくださったイエス様の十字架の死によって、信じる者は完全に罪の清算が済んでしまったのです。もはや、サタンから告発されることはないのであります。それだけではありません。イエス様の信仰の従順によって獲得された義と、神の子とされる特権が、何の功もない私たち信じる者たちに、恵みとして与えられるのです。これが十字架に上げられる出来事であります。
【2】. 光の子とは
さて、メシアが十字架に上げられるということをどうしても理解できなかった群衆は、イエス様に質問をしました。34節をご覧ください。
“すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」”
この群衆の質問に、イエス様は直接的に答えることをなさいませんでした。なぜなら、それに答えるためには、これから起こることになる、イエス様の復活や昇天のこと、さらには聖霊降臨のことについて理解しなければならないからです。イエス様は群衆の質問に答える代わりに、最後の呼びかけをなされました。35~36節をご覧ください。
“イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。”
これが群衆に対するイエス様の最後の教えであります。あなた方は、「今しばらく」という機会が与えられている内に「光を信じなさい」、「光のあるうちに歩きなさい」、「光の子となりなさい」と呼びかけられました。私は最初、この個所を読んだとき、「自分は、とてもとても、光の子なんて輝かしい者ではないな」と思いました。性格的にもそれほど外交的ではなく、どちらかと言えば内向的な性格で、セルフイメージも低いからです。人々との交わりも、出来れば避けたいと考えてしまいます。そのような自分は「光の子」ではなく、むしろ裏方で生きている「闇の子」ではないだろうかと思いました。「光の子」という呼称は、あまりにも自分には似合わないものであり、あまりにも自分には見劣りがするものであり、その呼称は、むしろ負担にさえ感じるほどでありました。しかし、聖書が言う「光」と「闇」という概念は、私がイメージした概念とは少し異なることに気付かされました。「光」とはイエス様のことですが、「闇」とは何でしょうか。「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない」。これが闇であります。セルフイメージが低いから、性格が暗いから、内向的だから、裏方の存在だから「闇の子」なのではありません。「闇の子」とは、自分が今どこにいるのか、そして、自分がどこへ向かっているのか、知らない人の事であります。この世がすべてだと勘違いし、死後の世界、或いは来るべき世について、何も知らない人の事であります。光を信じない人々を聖書では「失われた人」、「行方不明の人」、「滅びに定められた人」と語りますが、そのような人々を「闇の子」と言っているのであります。闇の子は、主イエスの十字架の死を単なる偶発的に起こった死としてでしか考えません。恥をさらしながら死んでいった一死刑囚の死として考えています。しかし、光を信じる者たちにとって、主イエスの十字架の死とは、他に代わることができない出来事であります。十字架の出来事はイエス様を天の御座に着座させました。十字架の出来事は神の国を樹立させました。十字架の出来事はこの世の支配者を追放し、死の支配を打ち砕きました。光を信じる者たちにとって、十字架の出来事とは、そのような決定的な出来事であったのです。ヨハネの黙示録12:10をご覧ください。
“わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、/昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、/投げ落とされたからである。”
ですから十字架の木材とは私たち光を信じる者たちにとって、まさに命の木なのであります。私たちの性格がどうであれ、私たちのセルフイメージがどうであれ、そんなことは関係なく、この栄光の十字架の主イエスを信じ受け入れる者は皆、光の子なのであります。そして光であるイエス様は、信じる者たちといつも共にいてくだいます。サタンの敗北は決定的になりましたが、しかし、最後の審判は依然として訪れていません。サタンは死に物狂いで活動し、出来る限りの抵抗を企てることでしょう。ですからキリスト者のこの世の歩みは、荒れ野の中を旅するイスラエルの民のように、多くの試練が待ち受けています。しかし、そのような試練の中にあっても共にいてくださるイエス様によって、不思議と守り導かれ、あたかもイスラエルの民が、あの荒れ野で40年間、天からのマナに与り、水がないところでは岩から水を湧き出させてくださり、実に衣服も古びず、足が腫れることもなく、神様の顧みと養いに与ったように、私たちキリスト者もこの地上での歩みを神の顧みと養いの中で全うするのであります。そして、最終的には私たちの真の故郷である天の都に入れられ、栄光を受けて、キリストの統治に共に参与する者とならせていただくのであります。
【結論】
本日の内容をまとめます。私たちは人の子が上げられた「十字架」を誇る者たちであります。イエス様の十字架の死とは、木に吊るされる極刑でありますが、同時にそれはイエス様の御座の着座であり、神の国の樹立であり、この世の支配者が追放される出来事でありました。私たちはこの十字架のイエス様を信じ、受け入れ、光の子とされているのであります。私たちの性格やセルフイメージがどうであれ、私たちの能力や社会的信用がどうであれ、十字架を誇り、主イエスを信じる者たちは全て光の子であり、たとえ日々の歩みの中で多くの試練に遭遇しても、神の愛と神の顧みと養いの中で守り導かれるのであります。