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2026年06月14日「勝利に輝く入城」

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:12その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
12:13なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」
12:14イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
12:15「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
12:16弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
12:17イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。
12:18群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
12:19そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
12:20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 12章12節~26節

原稿のアイコンメッセージ

【序】
ベタニアからエルサレムまでの距離はわずか3キロほどでありました。イエス様はベタニアを出発し、エルサレムに公然と入城され、多くの群衆の歓呼をお受けになられました。イエス様はまさに勝利に輝く王として、都に凱旋するかのようにエルサレムに入城されたのであります。

【1】. イエス様の認識と群衆の認識のズレ
12~13節をご覧ください。
“その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」”
12節の冒頭に「その翌日」という言葉があります。すなわちこの日は過越し祭の五日前の日曜日ということです。イエス様がエルサレムへ入城されると、群衆はなつめやしの枝を持って迎えに出ました。なつめやしとは棕櫚科の植物ですので、口語訳聖書では、「しゅろの枝を手にとって」迎えたと書かれています。このなつめやしの枝が意味していることは、勝利者に対する敬意のしるしでありました。そのしるしの由来はかつてイスラエルに異邦人からの解放をもたらしたマカバイ戦争に遡ります。英雄ユダ・マカバイの死後、その兄であるシモン・マカバイが抵抗運動を指揮するようになり、ついにアンティオコス・エピファネスの軍隊をエルサレムから駆逐した時の記録が旧約続編のⅠマカバイ記に記されていますので調べてみましょう。13:51です。
“第百七十一年の第二の月の二十三日にシモンとその民は、歓喜に満ちてしゅろの枝をかざし、竪琴、シンバル、十二絃を鳴らし、賛美の歌をうたいつつ要塞に入った。イスラエルから大敵が根絶されたからである。”
マカバイ兄弟の目覚ましい活躍によって、ついにユダヤはセレウコス朝シリアからの独立を成し遂げました。エルサレムの都への凱旋式の際、人々は歓喜に満ちて、なつめやしの枝を振り動かし、賛美の歌を歌ったのであります。凱旋するシモン・マカバイになつめやしの枝を振り動かしたように、今やエルサレムの群衆はイエス様になつめやしの枝を振り動かして迎えている訳です。ヨハネ12:13節の後半のかぎ括弧で括られた「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」という言葉は、詩編118編のハレル賛美からの引用です。「ホサナ」とは「どうか救ってください」という意味です。ただ、ここではどちらかと言うと、群衆の讃美の言葉、歓呼の言葉として響いています。
当時、エルサレムの都の住民は、4、5万人くらいだったと言われていますが(津島市の人口よりちょっと少ない程度です)、ところが過越しの祭りの時には、250万人以上の人々がエルサレムに集まったと、歴史家のヨセフスによって記録されています。250万人以上というのは、少し誇張された数字かもしれませんが、現代の神学者たちによれば、少なくとも過越しの祭りの時、20万人はいたであろうと考えられています。そのように多くの人々でごった返す中、群衆は一様に「ホサナ」と叫びながらイエス様を王として迎え入れたのです。数々の奇跡を行い、死者をも復活させる力を持つイエス様を、群衆は政治的な解放者として迎え入れました。そして、それに輪をかけるようにして、ラザロを甦らせた時にその現場で目撃していた人々が、あの出来事を人々に言いふらしました。従って、群衆の熱狂ぶりはさらにヒートアップしていったのであります。万が一、この時イエス様が群衆に向かって、腕を高く掲げ、そしてエルサレムを指差し「ユダヤの当局者たちをひっ捕らえよ!」ですとか、エルサレムに駐屯しているローマ兵に対し「突撃!進め!」などと命令しようものなら、大変な騒動が起こったに違いありません。ユダヤの当局者たちはこのような状況を見て動揺しました。19節では「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」と、絶望的な言葉を吐露しています。ところがイエス様はと言えば、群衆の歓呼に応えるため、奇妙な行動を取られました。すなわち軍馬に乗って行進するのではなく、ろばの子を見つけて、それにお乗りになり都に入城されたのです。14~16節をご覧ください。
“イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。”
何とも、ほのぼのとした凱旋となりました。最初、弟子たちは気づきませんでしたが、ろばの子に乗ってエルサレムに入城される姿は、旧約聖書に預言されていたことでありました。15節のかぎ括弧で括られた個所は、ゼカリヤ書9:9の引用ですが、ゼカリヤ書9:9~10節を調べてみましょう。
“娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。”
ここに「シオンの娘」とありますが、これは「エルサレムの人々」という意味です。ヘブライ語でもギリシア語でも、都市を表す名詞は、女性名詞になりますので、その都市に住む人々を表す際には「娘」が用いられるのであります。ゼカリヤ書に預言された、来るべきお方は、確かにイスラエルの王でありました。しかし、軍馬に乗ってエルサレムに入城するような政治的な王ではなく、ろばの子に乗られ、エフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ、そんな王様であったのです。その平和とは、決してパクス・ローマと呼ばれるような平和ではありません。つまり強大な軍事力を背景とした平和ではないということです。神の国の霊的な訪れを告げる平和であります。ここにおいて私たちは、群衆の認識とイエス様の認識との間に、大きなズレがあることを発見するのであります。群衆の認識は政治的解放者、政治的イスラエルの王の到来でありました。しかし、イエス様の認識とは霊的な解放者であり、御自身が十字架に引き渡され、犠牲の供え物として命を捧げる事によってもたらされる、霊的な神の国の到来であったのです。そのことを、ヨハネを初めとする弟子たちには、最初、理解できなかったのですが、イエス様の十字架と復活の後に理解するに至ったのであります。

【2】. 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである
続いて20~21節をご覧ください。
“さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。”
ここでギリシア人がイエス様にお目にかかりたいと謁見を申し出て来ました。彼らがどのような目的で謁見を申し出たのかは分かりませんが、そのことを知ったイエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。皆様もご存じのように「人の子」とはイエス様が御自身を指して語る時の呼称であります。この時イエス様は「ついに自分の名前が世界にまで知られる時が来たか。フフフッ」と誇らしく満足しているのではありません。ヨハネの福音書の中で「栄光を受ける」とは、十字架に架けられることを意味しています。十字架の死がなぜ、「栄光」なのか、私たちは理解に苦しむところであります。律法には木に架けられた者は呪われた者だと書かれていますし、またギリシャ人にとって十字架刑とは、ローマ市民には決して許されない極刑でありました。素っ裸にされ、恥をさらして死んでいくそのような十字架の死が、なぜ「栄光」なのでしょうか。イエス様は御自身の十字架の死について、次のように譬えで話されました。24節をご覧ください。
“「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」”
御自身の十字架の死が、一粒の麦であると言っていますね。普通は麦が地に落ちて芽を出すと表現すると思いますが、イエス様はあえて「麦が死ぬ」という言葉を使っています。十字架の死を「麦が死ぬ」と表現しています。小麦の場合は、一本の穂に30粒くらいの麦を実らせることでしょう。ただ一粒の麦が蒔かれて、そのまま一本の穂になるのではなく、発芽し、分けつして複数の穂となりますので、仮に三つの穂になった場合は3×30粒で、90粒ほどの小麦を実らせることが出来ます。栄光とはこのことを言っているのです。また、24節の「一粒のままである」と翻訳されている言葉は、「一人のままである」と翻訳することも出来ます。十字架に死ななければ一人のままですが、御自身が十字架に引き渡され、献げられることにより、多くの者たちを御自身のもとに引き寄せ、彼らを義とすることができる、そう仰っているのです。もちろん御自身のもとに引き寄せられる民は、ユダヤ民族だけにとどまりません。ギリシア人を始め、言語を超え、民族・種族を超え、全世界に及びます。御自身の十字架の死と復活によって、イエス・キリストを信じる全ての民に、神の国が霊的に訪れるのであります。

【3】. 希望の啓示
さて、ここで、一つの問いを提起させていただきます。これまで、ヨハネ福音書では、イエス様のミニストリーは出来る限り、人目につかないように身を隠し、荒れ野に逃れ、御自身を王に担ぎ上げようとする群衆を避けるようにして来ましたが、ここに来て、なぜ公然と御自身を顕されたのでしょうか。この問いは大変重要な問いであります。なぜここに来て御自身を顕されたのでしょうか。結論から言いますと、本日の勝利に輝く入城の光景が、実は天で霊的に起こっていることの啓示であったからです。時が満ち、その啓示を、弟子たちの心に焼き付けるために、イエス様はろばの子に乗って入城されたのです。たとえ、その時は弟子たちの認識と、イエス様の啓示の意味するところに大きなズレがありましたが、イエス様のエルサレム入城は、王としての凱旋式であり、勝利に輝く栄光の入城でありました。悪魔の力がいかに妨害しようとしても、「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行く」という言葉通りの状況が、新約時代のキリスト教会において現在進行形で起こされているのです。だからこそ今日も、異邦人である私たちが教会に招かれ、こうして礼拝を捧げることが出来るのです。そして、その光景は、ヨハネの黙示録にも描写されています。7:9~10をご覧ください。
“この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」”
これが現在、天において起こっている現実であります。イエス様の栄光の十字架と復活の御業によって、決定的な勝利がもたらされ、戦闘は止み、聖徒たちは白い衣を着せられて、神を礼拝しているのです。そこは楽園(パラダイス)とも呼ばれ、地上における私たち戦う教会が、いずれ入れられることになる天の勝利した教会の姿であります。私たちは日々、自分自身が抱えている様々な問題、自分自身の抱えている弱さ、欠けのために、悪戦苦闘しながら、中々、この天の勝利した教会の姿を思い浮かべることが難しいのだと思います。しかし聖書は次のように言うのです。イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、死の支配が打ち砕かれたため、キリストにある私たち教会も地上での生を全うした後、このキリストの王的統治に参与することになる。そして次の点が味噌でありますが、この天における霊的な祝福は、決して天の中にだけ閉じ込められているのではないということです。そのことは、ヨハネ黙示録の中で「新天新地」という概念で私たちに教えてくれています。つまり、やがての日、キリストが再臨される日に、この霊的な神の国は、実際に目に見える形で、可視的に訪れ、完成されるのであります。イエス様の身体の復活のように、私たちもやがての日に、身体の復活に与り、永遠の命を、可視的に、見える形で享受するのであります。最後にヨハネ福音書12:26節をご覧ください。
“わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」”
王として来られたイエス様に仕えようとする者は、イエス様の御足に従いなさいと命じています。その者と、主イエスは共にいてくださると約束してくださるからです。私たちキリスト者は、イエス・キリストにあって神の子でありますが、正確に言えば神の養子にされたという意味であります。御父にとって子は、独り子であるイエス様しかおられないからです。しかし、養子である私たちにとって、独り子のおられるところに共にいるということ、このことより大きな祝福があるでしょうか。それは、イエス様の神性に等しくされるということではありませんが、イエス様の永遠性に共に与り、イエス様の王的統治に共に参与するという意味であります。イエス様を王として迎え入れ、イエス様に仕える者たちは、御子にあって私たちも祭司であり王として、天のすべての嗣業を御子と共に相続するのであります。

【結論】
本日の内容をまとめます。イエス様が勝利に輝く入城をされた時の、イエス様の意味する所と群衆の認識は確かに違いました。それにも拘わらず、その光景は私たちキリスト者にとって、慰めと希望を与える絶対的な啓示として迫って来るのであります。すなわち十字架と復活の御業により、キリストが王として新たな統治を始められたこと、天において死に勝利したおびただしい数の聖徒たちが、なつめやしの枝を持ってハレル賛美を歌っているということであります。これが事実であります。私たち教会はこの地上において、しばしの間、罪との戦い、死の支配との戦いを経験いたしますが、既にイエス・キリストが勝利されたことを信じ、私たちの真の故郷である天を仰ぎ、上を向いて歩む私たちとならせていただきましょう。

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