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2026年05月31日「キリスト殺害の陰謀」

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聖句のアイコン聖書の言葉

11:45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
11:46しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
11:47そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
11:48このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
11:49彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
11:50一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
11:51これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
11:52国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
11:53この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
11:54それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
11:55さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
11:56彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
11:57祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 11章45節~57節

原稿のアイコンメッセージ

【序】
死んでから四日経過したラザロの復活は、主イエスに殺意を抱いていた宗教指導者たちにとって、もはや耐え難い出来事となりました。彼らは急遽最高法院を召集します。最高法院とはサンヘドリン議会の事であります。この議会は、議長である大祭司と、70人の議員で、合計71人によって構成されていました。「最高法院」と聞くとなんだか立派に聞こえますが、当時ユダヤは国家として独立していた訳ではなくローマの植民地でありましたので、実際は立法権を持つことはできず、また、司法権や行政権も制限されていました。ですから死刑の執行も、最終的にはローマから遣わされている総督の承認がなければ執行することは出来なかった訳です。そのように極めて制限された自治権でありますけれども、彼ら宗教指導者たちは自分たちに与えられているその小さな権利に執着するあまり、恐ろしい悪事を企てます。本日もヨハネの福音書11章に耳を傾けながら、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. サドカイ派とファリサイ派の共通の敵
ベタニアのマリヤのところで、イエス様がなさった奇跡を目撃したユダヤ人の多くは、イエス様を信じました。しかしその中にはファリサイ派の人々のもとに行き、イエス様のなさったことを告げ口する者もいました。いつものように、イエス様の奇跡を見た群衆の中で信じる者たちと信じない者たちに二分されたということです。報告を聞いた最高法院の人々の動揺を見ますと、当時かなり多くの群衆がイエス様を信じたようであります。47~48節をご覧ください。
“そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」”
この48節の最後のところで、サンヘドリンの議員たちは「滅ぼしてしまうだろう」と言ったとありますが、信頼できる多くのギリシャ語の写本を見ると「奪ってしまうだろう」となっています。つまりサンヘドリンの議員たちは、自分たちの神殿と自分たちの国民が奪われることを憂慮しているのです。どういうことかと言いますと、当時イスラエルの中にはメシア到来の機運が高まっていました。我こそ来るべきメシアであると自称する人物も幾人か出てきたほどです。そして民衆の側もローマの圧政から自分たちを解放してくれる政治的なメシアの到来を熱望していました。そんな中でナザレのイエスという青年が、群衆から絶大な人気を得て登場してきたのです。もし、群衆が彼を担ぎ上げ、ローマからの解放を掲げて騒動が起こるなら、必ずローマ軍が動員され、神殿も国民も自分たちから奪い取られると言っているのです。これはイスラエルの民を思っての発言というより、自分たちに与えられている権利を失うことを憂慮した発言であることが分かります。
さらに、私たちが注目したいのは、彼ら宗教指導者たちは、イエス様の多くのしるしや奇跡を認めていたということです。復活はないと、日頃主張していたサドカイ派の人々も、ラザロを復活させた奇跡は認めていました。これまで、イエスによってあまりにも数多くの奇跡が公然と行われてきたので、もはや彼らとて、そのしるしや奇跡を否定することは出来なかったのでしょう。それでは、イエスによるしるしと奇跡、それ自体は認めていたのになぜ、彼らの間で「もしかしたら、その方はメシアなのかもしれない!」そんな疑問が提起されなかったのでしょうか。専ら自分たちの組織を維持することだけを考え、イエスという青年は自分たちの組織にとって単なる脅威であり、何としてでも排除しなければならない。そのように考えていたのです。彼らは宗教指導者でありながら、神様の視点が決定的に欠けていたのです。会議の中でその年の大祭司であるカイアファは、次のように語りました。49節後半から53節迄ご覧ください。
“「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。”
このカイアファの発言を聞いて皆様はどのように思われたでしょうか。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、好都合だ」。確かに効率的に考えれば、そのような論理に導かれるのかもしれません。つまりイエスを排除するなら、今起こっている熱狂的なムーブメントを鎮めることができる。そうすればローマ軍による神殿への介入、そして自分たちが握りしめている自治権への介入を防ぐことができるということです。
しかし、これは神を恐れない大変恐ろしい論理だと思います。この言葉と対照的になる言葉が、イエス様の「99匹の羊と一匹の迷える羊」の譬え話だと思います(ルカ15:1~7)。イエス様は譬え話の中で、「羊飼いは99匹を荒れ野に残し、見失った一匹を見つけ出すまで探し歩かないだろうか?」と言われました。はぐれてしまい迷子になった一匹のか弱い羊に、イエス様がどれほど大きな関心と深い愛を持っていたのかが分かります。しかしカイアファの冷徹な意見は、結局、議会の中でそのまま決議されました。71名からなるサンヘドリン議会の議員は、多くが貴族階級のサドカイ派に属しています。大祭司も、このサドカイ派から選出されることになっていました。少数派のファリサイ派の人々は、普段はサドカイ派と意見が合うことはありません。神学的な背景が異なるからです。議会は常に意見が対立していました。ファリサイ派の人々は復活を信じていましたが、サドカイ派の人々は復活を信じていません。ファリサイ派の人々は天使の存在を信じていましたが、サドカイ派の人々は天使など信じていません。サドカイ派はローマとの関係が良好であり、ファリサイ派はとっては、そのことも面白くない点でありました。このように犬猿の仲のように思えるサドカイ派とファリサイ派ですが、イエス様を殺害するという点においては、すんなり意見が合致したのです。イエス様の存在は、彼らの権威を揺るがすものであり、共々イエスという青年に脅威を感じていたからであります。

【2】. 大祭司の預言
さて、50節の大祭司カイアファの口から発せられた言葉ですが、福音書の著者であるヨハネの解説によれば、その言葉は本人が意図した意味とは違う、別の意味を持っていたと言います。すなわち、「神の預言」であったと言うのです。ギリシア語の聖書を見ますと、「一人の人間が民の代わりに死ぬ」という個所が「一人の人間が民の贖いとして死ぬ」と読むこともできるからです。そして、50節において「国民」という言葉を使わずに、突然「民」ギリシャ語の「ラオス」という言葉を用いたのも不思議です。「民(ラオス)」という言葉は、旧・新訳聖書を通して一貫して、神の民、すなわちイスラエルを指す言葉でありますが、新約聖書においては「神の民」と言えば、特に教会を指す言葉でもあります。ですからカイアファの発した言葉は、本人の意図とは関係なく、まさに神様が御子イエスをこの世に遣わされた目的について語られた「預言の言葉」として、弟子たちに響いたのでありました。イザヤ書53:4~6をご覧ください。
“彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。”
旧約聖書の中で何か所か、メシアが御自身の民のために贖いの死を遂げることが書かれていますが、イザヤ書53章ほどはっきりと書かれている箇所はありません。イエス様の十字架の死とは、御自身の民を罪の結果である悲惨な状態から救い出すものであり、イザヤ書53章に預言された内容の成就であったのです。それだけではありません。ヨハネ11:52節には「散らされている神の子たちを一つに集めるため」とありますが、この「散らされている神の子たち」とは、新約の背景においては、イエス様を信じる異邦人の事を指しています。ある人は旧約の背景においては、離散しているユダヤ人たち、すなわちディアスポラを意味すると指摘する人もいますが、ここでは明らかに異邦人のキリスト者を指しています。イエス様の十字架の死とは、民族を超えて、異邦人も含め、散らされている「神の子たち」を一つに集めるためのものでもあったのです。そして、そのことは、以前イエス様御自身も譬え話の中で暗示されておられました。ヨハネ10:16を調べてみましょう。
“わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。”
イエス様の譬えの中で「この囲い」とは、ユダヤ人社会を意味しています。つまり、ユダヤ人社会に属していない異邦人の中にも主イエスを信じる群れがあって、その群れをも導かなければならないと、主は仰るのです。イエス・キリストを信じる者は誰であれ、罪赦され、一つに集められ、神の子とされるのです。私たち津島教会は週の初めの日に礼拝を捧げていますが、同じく全世界の公同の教会も、週の初めの日にイエス様を救い主として信じ、礼拝を捧げています。イエス・キリストを頭として、全世界の教会は民族の違いや、地理的な隔たりを超えてキリストの体、一つの有機体なのであります。もっと言えば、それは、時間的な隔たりさえも超えて行きます。主を信じる聖徒たちは、旧約の時代であろうが、新約の時代であろうが、仲保者であるキリストにあって、一つの体として集められているのです。大祭司カイアファの言葉は神様の預言であって、実に神様はこのように深い意図を込められていたということです。神様はこのようにイエス様を信じない不信者を通してでも、御自身の御業を前進させられるのです。

【3】. 信仰の業
そうしますと、一つの疑問が出てきます。大祭司カイアファにしても、或いはイエス様の身柄を当局者たちに引き渡したイスカリオテのユダにしても、神様の永遠のご計画に協力するような形で用いられたので、たとえ不信者であっても神の働きの一端を担ったのであり、結果的に良い業をしたのではないか?という疑問であります。皆様はどのように思われるでしょうか。
そもそも、良き業、美しい業とは信仰を通してでなければ捧げることは出来ません。ミカ書6:8をご覧ください。(聖書協会共同訳で抜粋いたしました。)
“人よ、何が善であるのか。/そして、主は何をあなたに求めておられるか。/それは公正を行い、慈しみを愛し/へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。”
ミカ書には、公正を行うこと(公正とは、孤児や寡婦や寄留者など弱い立場にある人を保護すること)、慈しみを愛すること、そして遜って神と共に歩むこと、それこそ、善き業であると書かれています。良き業とは、単に神の律法を守ることではありません。或いは人間の考えから出て来た業でもありません。良き業とは信仰により、聖霊によって導かれた業であるということです。例えば、イエス様を全く信じていない人が、人間的に見てどれほど良い業を行ったとしても、どれほど誠意を尽くして慈善団体に莫大な金額を寄付したとしても、或いは貧しい子供たちのために野球道具やサッカー道具を寄付したとしても、それ自体ではその業は依然として神の御前に汚れているものであり、受け入れられないのです。信仰がないからです。一方で、イエス様を信じる者が、ほんの小さな業をしたとします。例えば、旅人や疲労困憊している人に対し、水を一杯飲ませるような行為です。例えば、皆様が毎月心を込めて捧げている十一献金や感謝献金であります。人間的に見ると決して十分な業ではないと思うかもしれません。ところが神様の目にはそれをイエス・キリストを信じる信仰のゆえに「良き業」、「美しい業」として受け入れてくださるのです。どんなに小さくても、神の目にはそのように映るのです。神は悪人たちを、彼らが全く予期していなかった言動に導かれることがありますが、悪人たちが犯す罪については、たとえそれが預言であったり、預言の成就だとしても、彼らには自分が犯した罪に対して弁解の余地はありません。悪人たちが犯した罪の責任は、全面的に彼ら自身の責任であって、神がこの世に遣わされたメシアを殺そうと議会を導いたカイアファの罪、そしてメシアをユダヤ当局者たちに売り渡したイスカリオテのユダの罪も、罪は罪としてそのまま残るのです。

【結論】
本日の内容をまとめます。サンヘドリン議会は、キリスト殺害の陰謀を決議いたしました。同じように、私たちの回りにおいても悪魔が働いて、罠や謀略をまき散らし、私たちを混乱に陥れようとしています。しかし私たちは、結局、すべての混乱を終わらせて、秩序をもたらす神の摂理が、私たちの理解を超えたところに置かれていて、天において光り輝いているということを知るようになるのです。父なる神は、万事を益にして私たちを顧みてくださり、悪しき者たちの行いさえお用いになられ、御自身の御業を前進させられるのであります。私たちは、この神様に信頼をおきながら、困難な時にも、大変な時にも日々主の御前に額ずき祈りつつ、主にあって信仰の業、良き業、美しい業を御前に一つ一つ捧げていく者たちとならせていただきましょう。

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