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2026年05月24日「ラザロよ、出て来なさい」

ラザロよ、出て来なさい

日付
説教
川栄智章牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章28節~44節

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聖句のアイコン聖書の言葉

11:28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11:29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11:30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11:32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11:33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35イエスは涙を流された。
11:36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 11章28節~44節

原稿のアイコンメッセージ

【序】
本日は、ペンテコステ記念礼拝です。五旬節とも呼ばれますが、この五旬節とはギリシア語のペンテコステの翻訳であり、「五十日目」という意味です。この祭りは、過越しの祭りの期間中の最初の安息日を迎えてから50日目にお祝いする祭りであるため、必ず週の初めの日、すなわち日曜日になるように設定されていました。この祭りの日に、約束されていた聖霊がイエス・キリストを信じる弟子たちの上に降臨するという記念すべき出来事が起こったのです。聖霊の注ぎとは神様の再創造の業を象徴しています。私たちキリスト教会は、毎週、週の初めの日に礼拝を捧げていますね。その理由は、週の初めの日が創造の第一日目、神が光を創造された日であり、そしてイエス・キリストが復活された日であり、さらに言えば聖霊が注がれて神の再創造の御業を象徴する日となったからです。神の創造には、始めの創造と聖霊を受けて救われる再創造の二段階があるということです。初代教会は次第に、安息日ではなく、週の初めの日に礼拝を捧げるようになって行きました。これまでの伝統が書き換えられるきっかけとなったのが、本日のラザロを復活させるしるしであったと言えるのかもしれません。本日もヨハネによる福音書に耳を傾けながら、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 死の暴政に立ち向かう戦士
イエス様一行が、ベタニアに到着しました。その知らせを聞くとマルタが村の境界線までイエス様を出迎えに行きました。マルタが家に戻ると、マリアに耳打ちをして「先生がいらして、あなたをお呼びです。」と囁きました。どうやらイエス様はマルタと個人的に話をしたようにマリアとも個人的に話すことを願われたようです。しかしそれは叶いませんでした。マリアが急に立ち上がり家を出て行くと、慰めに来ていたユダヤ人たちもゾロゾロと彼女の後を追って行ったからです。当時の弔問客の中には、雇われて義務的に泣き悲しむ人々、所謂「無き女」とか「泣き男」と呼ばれる人もいました。彼らはマリアが墓に行くと思ったのです。マリアはイエス様を見るなり足元にひれ伏し、マルタと同じように嘆きの気持ちを表しました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。この時、イエス様はマリアを始めとして、人々の悲しむ姿をご覧になられ、ある感情が生じたと書かれています。33~34節をご覧ください。
“イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。”
ある感情とは、「心に憤りを覚えられた」ということです。この「憤り」という言葉は38節にも再び出てきますが、この言葉は馬が鼻から鼻息を吹き出すのを描写するのに用いられます。「ブルルルッ」そのような激しい憤りを覚えられたということです。イエス様はなぜ心に憤りが生じたのでしょうか。注解書によって多くのことが言われていますが、ある神学者は、「復活であり命であるそのお方の前で示した、彼らの不信仰に対してではないか」と言います。イエス様はマルタとマリアが遣わした伝言の者に、はっきりと伝えました。11:4節です。
“イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」”
ですからマルタもマリヤも使いの者を通してイエス様のお言葉を聞いていたはずですが、彼女たちはラザロの復活を信じていなかったため、それ故の憤りだと主張します。また他の神学者は「ユダヤ人たちの大袈裟な泣き方に対して憤られたのではないか」と言います。つまり、上っ面だけ泣いているユダヤ人たちに対しての憤りだと主張します。宗教改革者であるカルヴァンはこの個所の解釈で、主イエスは死の力の支配、死の暴政に立ち向かう戦士として、心さわがせ、激しい感情の高まりを抑えきれなかったと解釈しています。私もこの解釈が正しいと思いますが、イエス様の目には、死の力に支配されている状態が、異常事態として映っていた訳です。なぜなら聖書において「死」というのは、最初からあった訳ではなく、罪の結果として死の支配がもたらされたからです。死の力が、この世界を完全に支配していること、そのことに対する憤りであるとカルヴァンは主張するのです。イエス様は悲しみを引き起こす死の支配、死の力に憤られました。そしてやがての日には悲しむ者の目から涙をことごとくぬぐい取ってくださり、もはや悲しみも嘆きも労苦もなくなるであろう王国を、信じる者にもたらされるのです。
さて、35節には、今度はイエス様が涙を流されたと書かれています。なぜイエス様は涙を流されたのでしょうか。ここも解釈が分かれるところですが、イエス様の涙を見たユダヤ人たちは次のように言いました。36~37節をご覧ください。
“ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。”
イエス様が「ラザロをどんなに愛しておられたことか」というのは事実でありますが、ユダヤ人たちはイエス様の涙について、ラザロを死なないようにすることが出来なかった痛恨の涙であると解釈しています。やり場のない絶望感の中で嘆きの涙を流していると解釈しているのです。これは明らかに間違っていますね。なぜならイエス様はラザロを蘇らせるために、あえて二日間遅延してベタニアに向かわれたからです。イエス様はこの後、ラザロが復活することを確信していました。そうなら、どうしてイエス様は涙を流されたのでしょうか。ローマ12:15には次のような御言葉があります。
“喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。”
つまり、イエス様は罪びとである私たちの悲しみと絶望に対して決して無感覚ではないということです。たとえ不幸や、悲惨な結果が、私たちの罪に起因しているとしても、イエス様は悲しんでいる私たちに寄り添い、一緒に悲しんでくださり、一緒に涙してくださるお方なのです。

【2】. 栄光のしるし
ラザロが葬られた墓に案内してもらうと、それは洞穴でできた墓であり、石が入口をふさいでいました。ちょうど、イエス様が葬られることになるお墓と同じような構造をしていました。イエス様は死の圧倒的な力に立ち向かい、心に憤りを覚えつつ、「その石を取りのけなさい」と言われると、マルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。四日たてば、既に腐敗が始まっていますので、当然臭う訳です。再び惨めな兄弟の遺体を見なければならないのかということを考えれば、マルタがそのように言うのも頷けます。ところがイエス様は次のようにマルタに言われました。40節をご覧ください。
“イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。”
この言葉は、先ほどの11:4においてイエス様が使いの者に語った言葉でありますが、私たちはここで「栄光」という言葉に注目したいと思います。ヨハネ福音書の中で、イエス様が神の栄光をお受けになる出来事は、イエス様の十字架と復活の出来事であるということが強調されています。7:38~39を調べてみましょう。
“わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。”
これは、著者であるヨハネの解説でありますが、イエス様はまだ栄光を受けておられなかったこと、したがって聖霊降臨の出来事はまだ起こっていないということが書かれています。ですから栄光をお受けになるとは、十字架と復活の出来事であり、死んだラザロを復活させる奇跡とは、まさに死の権勢を打ち破る御自身の十字架と復活を予表させるしるしであったのです。ラザロの復活に、御自身の「栄光の十字架と復活」を重ねているということです。
人々が石を取りのけると、イエス様は天を仰いで祈りを捧げてから「ラザロ、出て来なさい」と大声で言われました。すると信じがたい光景が人々の目の前に現れました。理性では決して受け入れることが出来ない光景でした。なんと、死んでから四日も経過し、既に腐敗が始まっているはずの身体が復活したのであります。これは単に肉体を離れてしまった魂が再び戻って来たと言うことでは説明がつきません。腐って、死んだ細胞が微生物によって分解されて行くその過程において、「ラザロ、出て来なさい」という言葉と共に、命が注がれ、神の創造の御業が起こされたのであります。エゼキエル書37章に、枯れた骨に霊が吹き込むように預言すると、生き返ったという不思議な幻が記されていますが、まさにそのような出来事が起こったのです。そしてこの出来事はかつてイエス様はファリサイ派の人々との論争の中で次のように語られました。5:25~26をご覧ください。
“はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。”
この言葉を聞いたファリサイ派の人々は、イエスが神聖冒涜の罪を犯していると考えました。なぜなら自らを神と等しい者としていたからです。御父が命の源であるように、子である御自身も、やはり命の源であると主張したからです。ところが、今、死人を復活させることによって、この御言葉を証明してしまいました。神の御言葉とは、世界を創造し、現在も世界を支え、運行させる神の力であります。神の御言葉とは単なる音声ではありません。純粋に神の御心を告げ知らせるだけではなく、同時にそれを成就させる力でもあります。イエス様は御言葉によって海を静め、御言葉によって病人を癒し、御言葉によって悪霊を追い出し、御言葉によって死んでから四日たったラザロを復活させました。イエス様の語る御言葉も、単なる音声ではなく、霊であり、命であり、まさに旧約時代に神が言葉によってこの世界を創造された、あの言葉であることを証明されたのであります(参照ヨハネ6:63)。この奇跡が直接的な引き金となり、この後、次週見ることになりますが、ユダヤの当局者たちはイエス様を殺すことに決議することにしました。イエス様の存在は、律法と神殿に仕えていた当時の宗教指導者たちと自然に衝突し、当局者たちにとってイエス様が明らかに自分たちの地位を脅かす存在として映ったからであります。イエス様の呼び声に反応し、ラザロが手と足を布で巻かれたまま墓の中から出てきました。44節をご覧ください。
“すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。”
イエス様はそこにいた人々に、ラザロの体に巻かれている布をほどかせることによって、この奇跡に参与させました。布をほどいてみると、そこには腐った肉片ではなく、ほのかに温かい血の通った皮膚を目撃したことでしょう。彼らは、後ほど、このお方こそ死の支配に勝利された方であり、自分たちの罪を贖ってくださるメシアであるということを信じ、教会に加えられたに違いありません。
イエス様の十字架と復活を通して、聖霊が降臨した後も、初代教会は依然として安息日に礼拝を捧げ、神殿の営みと律法を遵守していました。ところが次第にキリスト教会は聖霊によって目が開かれていき、かつて主イエスが語られた数々の御言葉について、あるいは主イエスがなされた一つ一つの御業について、真の理解に達するようになりました。すなわち、神の民である教会は、神殿と律法によって建て上げられているのではなく、主イエスを神の子であり、メシアであると告白するその信仰の土台の上に建て上げられているということを理解するようになりました。律法とは、ファリサイ派の人々が主張するように、それが義を与えてくれるものではなく、むしろ律法とは神の怒りと呪いと死をもたらすもの、それはただしばらくの間、教育の目的として導入されたに過ぎないということを理解するようになりました。使徒パウロは次のように言っています。コロサイ2:14(聖書協会共同訳)を調べてみましょう。
“数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。”
律法が私たちを日々訴え続けるその借用書を、イエス様は十字架上で釘付けにし、破棄してくださいました。したがって、神殿と律法に仕える旧約の時代は終わり、新しいぶどう酒は新しい革袋を必要とするということを理解するようになり、キリスト教会は独自に安息日ではなく、主の日に礼拝を捧げるようになっていったのであります。

【結論】
本日の内容をまとめます。イエス・キリストは死の支配・死の暴政の前に憤り、立ち向かわれ、御自身の十字架と復活によって死の支配を打ち破りました。ラザロの復活の奇跡とは、まさにその栄光の御業のしるしでありました。御自身の血によって新しい契約が結ばれたことをそれは意味し、旧い契約が更新され新しくなったことを意味します。この新しさは、決して聖なる律法を破棄するものではありません。むしろ律法を確立するものであります。なぜなら律法の要求である「良き業」とは、ファリサイ人のような律法主義的な行いによってなされるのではなく、イエス様を信じ,聖霊に従って行動するキリスト者たちを通して成就されるからです。五旬節のペンテコステの日、聖霊が教会に注がれ、そして私たち教会が聖霊によって良き業、美しい業を捧げていくことが出来ることを感謝したいと思います。

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