問い合わせ

日本キリスト改革派 津島教会のホームページへ戻る
2026年05月17日「復活であり命である主」

復活であり命である主

日付
説教
川栄智章牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章17節~27節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

11:17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11:18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11:19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11:20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11:21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11:23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 11章17節~27節

原稿のアイコンメッセージ

【序】
「ラザロは死んだのだ」。衝撃的な言葉が主イエスの口から出てきました。その言葉を聞いて、弟子たちはようやく状況を飲み込むことが出来ました。そしてユダヤ行きの決意を固めたイエス様に応答するかのように、トマスが弟子たちを代表して言いました。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」。この言葉には、キリストの弟子として生きるトマスの並々ならぬ決意表明が現わされていますが、同時に依然として、イエス様のことを理解できてない弟子たちの姿をも現しています。トマスがイエス様のことを理解していなかったように、私たちもイエス様について多くのことを死っているようでいて、実はあまり知らないのかもしれません。25節、26節において、イエス様は「わたしは復活であり、命である」という大変有名な御言葉を語られますが、この言葉も分かるようで、中々その真意をつかみきれない言葉だと思います。本日はヨハネの福音書に共に耳を傾けながら、イエス様の語られた自己啓示によって、私たちのイエス様に対する理解がさらに深められるようになればと願います。

【1】. わたしは復活であり、命である
17~19節をご覧ください。
“さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。”
当時のユダヤの社会では、人が死んだ時、その日のうちに埋葬されました。ですから「葬られて既に四日もたっていた」ということは、ラザロは四日前に死んだということを表しています。墓に埋葬されてから喪に服す期間に入ります。この時、弔問客が遺族を慰めるために、長い時間その家に留まるのですが、その期間は今日のユダヤ教でも見られるように、七日間続いたと考えられています。さらにその七日間が過ぎたとしても、遺族は悲しみを表現するために、向こう三週間は身だしなみを整えず、向こう一年間は楽しむことを慎むのが慣例でありました。昔の日本も似たようなものでありますが、当時のユダヤの人々にとって弔いという儀式は、嘆きを大げさに表現する手段として、このように社会に深く浸透していたのであります。四日目に入ると、遺体の顔の色が明らかに変わり始め、腐敗が始まります。そのために、当時の人々は死後三日間、近くを徘徊していた魂が、完全に離れ去るのが四日目であると考えていました。ですから死後に何らかの理由で息を吹き返し、蘇生するというケースもありましたが、四日目に入った遺体は、魂が完全に離れ去ってしまったため蘇生する可能性が全くないことを意味しました。その四日目にイエス様が到着したのであります。ベタニアはエルサレムから15スタディオン、わずか3キロほどの距離でありましたので、エルサレムからユダヤ人の弔問客が来ることが可能でした。弔問客の中にはイエス様に敵対心を燃やしていたファリサイ派の人々もいたと考えられます。もしかしたら、ラザロとその姉妹たちの家は、相当な資産家だったのかもしれません。いずれにしても、イエス様が来られたということを知ると、姉のマルタは早速迎えに行きましたが、妹のマリアは家の中に座ったままでいました。姉のマルタの行動力が私たちの目を引きます。ルカ福音書にもマルタとマリアの姉妹について記述されているところがありますが(ルカ10:38-42日)、そこでもマルタの行動力が際立っていました。姉と妹、二人とも敬虔な信仰を持っていましたが、賜物の違い、性格の違いがよく表れている箇所だと思います。教会とはこのように信仰は一つであってもこのように多様な人々が集まっているのです。続いて21、22節をご覧ください。
“マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」”
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」この言葉は、妹のマリアも11:32節においてそのまま同じことを繰り返して言っています。つまり姉妹たちがイエス様の到来を、今か今かと待ちわびていたということを伺わせています。イエス様が病で苦しんでいる多くの人々を、奇跡によって癒されたということは、誰もが知っている周知の事実であり、主がもしここにいてくださったなら、必ずラザロは癒されただろうということを信じて疑いませんでした。マルタはさらに続けます。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」この言葉には、マルタのイエス様に対する揺るぎない信仰が現われていると思います。考えてみますと、マルタとマリアの姉妹は、ラザロが死に瀕している時、川の向こう側にいたイエス様に使いを送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた、あの時も「今すぐに来てください!」ですとか、「何かお言葉をいただけますでしょうか!」などとは一切言わず、ただラザロが病気であることだけを伝えました。それは、主の愛する者が病気であること、そのことさえ伝えればよい、後は主が最善な仕方で取り計らってくださるに違いない、そんな信頼がマルタにマリアにあったからであります。「主はラザロを愛しておられる。」「私たちの考えで、ああして、こうして、と言う必要はない。」「一切を主にお委ねしよう!」そのような信仰を持っていたのです。イエス様とマルタの会話はいよいよ佳境に差し掛かります。23~24節をご覧ください。
“イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。”
当時、終わりの日に復活するということは、サドカイ派の人など一部の人々を除き、ほとんどのユダヤ人が信じていました。民衆から尊敬されていたファリサイ派の人々が終わりの日の死者の復活を信じていたということもあったと思います。マルタの返事に対し、イエス様は「エゴーエイミーἐγώ εἰμι」という言葉を用いて、自己啓示のお言葉を語られました。25、26節をご覧ください。
“イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」”
「わたしは復活であり、命である」という箇所において「エゴーエイミーἐγώ εἰμι」が使用されています。英語ではI amと訳されている言葉です。ギリシア語の文法上「エゴーエイミー」という言葉がない方が却って意味が通るので、普通は省略されるにも拘わらず、ヨハネによる福音書の中には、この「エゴーエイミー」という言葉が、なんと24回も出てきます。「私がそれである」という表現から始まり、補語と組み合わされて、「私はパンである」「私は世の光である」「私は羊の門である」「私は良い牧者である」「私は復活である」「私は道である」などなどの表現です。なぜ、イエス様はこのように執拗に「エゴーエイミー」を繰り返されるのでしょうか。それは皆様もよく御存知のことと思いますが「エゴーエイミー」という言葉が、旧約聖書の中で主の御名としてモーセに知らされたお名前であるからです。出エジプト3:13~14をご覧ください。
“モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」”
モーセは、イスラエルの人々から「あなたを遣わしたというその神の名は何なのか?」と質問される度に、「『エゴーエイミー』というお方です(即ちわたしはあるというお方です)」。そう答えたというのです。そしてイエス様は、このエゴーエイミーを用いて、今、マルタに対し「わたしがその復活であり、命である」、「今、ここにいるこの私が、あなたの言うその復活なのである」と言われるのです。
因みに、25節後半で「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と仰いましたが、信仰そのものが命の原理であったり、命の根源であったりということではありません。なぜならイエス様御自身が命の原理であり、根源であるからです。それでは信仰とは何かと申しますと、主イエスと私たちの媒介であり、アンテナのような、レシーバーのようなものです。イエス様にある命を、イエス様にある恵みを、受信するためのものに過ぎません。信じる者は永遠の命を持つことになりますけれども、それは主イエス・キリストにあって永遠の命を持つということなのです。ということは、わたしたちが命を得るためには、アンテナを通して、レシーバーを通して、命の源であるキリストにつながらなければならないということになります。キリストに結合すること、キリストとの交わりを持つことが、決定的に重要となるのです。

【2】. 死んでも生きる
さて、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とイエス様は仰いましたが、これは肉体の死後の世界について語っていると思われます。肉体の死後、体と魂が分離しますが、信者の魂はキリストと共にある楽園に入れられます。ですから、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とは、肉体的に、医学的に死んだとしても、キリストと共にあって、永遠にキリストとの交わりを持つという意味であります。イエス様の語られる「命」、死ぬことのない「永遠の命」とは、信仰によって、私たちがイエス・キリストと人格的な交わりを持つということなのです。それでは、この命の対極にある「罪の中に滅びる」とは、どういう意味でしょうか。それは神様から遠く離れていること、神様に仕えることを拒否することであります。不信者の魂は肉体の死後、陰府に入れられますが、楽園と陰府の間には大きな淵、深い断絶があって、そこを渡ろうとしても誰も一方の側から他方の側へ飛び超えていく事は出来ません(ルカ16:26)。それほど楽園と陰府は、神様との関係において遠く離れているのです。一方がキリストとの交わりの国で、もう一方が神様から遠く離れている国であります。
永遠の命というものを、キリストとの交わりという観点から考えるなら、イエス様の語るところの「命」というものが、「復活」というものが、現在、この世において主イエスと共に始まっているということをご理解いただけると思います。マルタが遠い未来にあるだろうと漠然と信じていた復活を、イエス様は御自身の人格に手繰り寄せられ、今まさに御自身との交わりにあって、永遠の命が、復活が、この世において既に始まっていると言われるのです。
キリストとの人格的な交わりを持つこと、そしてイエス・キリストを知ること、それは週ごとに捧げている私たちの礼拝においてまさに起こっています。礼拝とは英語でservice(奉仕)と表現しますが、まさに神様に仕えることだからです。或いは、私たち教会が心を合わせて神様に祈りを捧げることも、イエス・キリストとの人格的な交わりであると言えるでしょう。そして、お一人おひとりが津島教会のために捧げている一つ一つの奉仕も、まさにイエス・キリストとの人格的な交わりであります。祈りを捧げている時、掃除や、礼拝当番などの奉仕をしている時、実は、それは神様に礼拝を捧げていることと同じで、イエス様との人格的な交わりをもっている、永遠の命に生きているということを覚えてくださればと思います。反対に、たとえ肉体的に医学的に、今、生きているとしても、イエス様との交わりがないならば、その人は神様から遠く離れている、命を持っていないという事態も起こり得るのです。ルカ9:60を調べてみましょう。
“イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」”
この個所においても、やはり死者の葬りが出てきますが、先ほど申しましたようにユダヤの社会においては親族が死者を葬ることは大変重要なしきたりであり、慣例として考えられていました。ところがイエス様は、その重要なしきたりを死んでいる者たちにさせなさい、主御自身と交わりを持たない者たちにさせなさいと言われます。そしてキリストの弟子であるあなたは、行って神の国を言い広めなさいと言われるのであります。死者の葬りより大切なこと、それは、死の権勢を打ち破ったお方が来られたこの良き知らせを言い広めることだと言うのです。死の縄目から私たち罪人を解放してくださったお方が来られたこの良き知らせを言い広めることだと言うのです。この方にあって、私たちは新しく生まれ変わった者たちであり、この方にあって、私たちは、死から命へ移された者たちであります。永遠の命を得るとは、いつか遠い将来に起こる出来事なのではなく、今、実際に、イエス様との人格的な交わりに生きている、私たち一人ひとりにおいて起こっている現実なのであります。

【結論】
本日の内容をまとめます。永遠の命とは、遠い将来に起こる出来事なのではありません。永遠の命とは、主イエスとの関係に基づいています。イエス様が死の権勢を打ち破り、御自身が命の原理であり、命の根源となられました。このキリストとの人格的な交わりの中で、今日、この瞬間、私たち教会は永遠の命の中で生きているのであります。そしてキリストとの交わりとは、神様にserviceすることであり、教会が共に祈り、共に仕え合うことであります。私たち津島教会は6月から礼拝後の午後の時間に祈祷会を持つことに致しました。この祈祷会に皆様もぜひご参加下さり、キリストとの交わりを実践してくださればと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す