2024年02月04日「キリストにある安らぎ」

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キリストにある安らぎ

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章25節~30節

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聖書の言葉

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書 11章25節~30節

メッセージ

本日の説教では、マタイによる福音書11章25節から30節までの御言葉を通じて、イエス・キリストが私たちに与える安らぎについて深く掘り下げて参りたい。特に、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という御言葉を中心に、キリストがどのようにして私たちの重荷を軽くし、心の休息を与えてくださるかを共に見ていく。

28節のこの御言葉は、私たちが日々直面する疲労や重荷、不安や心配事をイエスが如何に理解し、これらを軽減させることができるかを示している。私たちの疲れや重荷は、単に肉体的なものだけでなく、心の苦しみや精神的な重圧をも含んでいる。イエスは、これら全てを理解し、私たちを休ませ、リフレッシュさせたいと望んでおられる。休むは何もしないというのではなく、新たな展望に基づいて与えられるもの。

私たちが疲れや重荷を負う中で、ふとした瞬間に励まされるのは主にある友人や教会の仲間達の何気ない一言ではないか。教会のコミュニティや家族、友人との関係がいかに大切であるかを実感する一方で、真の休息はキリストにのみ見出すことができる。イエスは私たち一人ひとりの疲れを知り、重荷を見て、積極的に安らぎを提供してくださる。興味深いことに、キリストの招きは、重荷を捨てさせることや問題を直接解決するのではない。私たちに新しい希望と安らぎを与えることに焦点を当てている。このことが可能なのはキリストこそ、究極の癒しともいうべき罪の束縛からの解放を与えてくださるお方だから。

イエスは「私のくびきを負う」ように提案する。この「くびき」とは、動物につけるものであり、二頭の牛を並べてくびきでペアを作り、牛の力を利用して車を引く。農作業などで用いられていた。そのことから、くびきは自由を奪い取るもの、強制的なものを意味するようになった。くびきは人間用のくびきも存在し、思い荷物をもつためにこのくびきがもちいられた。くびきとはこのマタイ12章では律法学者やファリサイ派の人々が課していた厳しい律法遵守のことだと理解する人もいる。そのような重く苦しめるくびきではなく、イエスの言う私のくびきとは重荷や苦しみを取り除く新しい方法を意味している。このくびきは、私たちがキリストに学び、神と共に生きることを通じて、魂の休息を得るプロセスだといえるだろう。学ぶとは弟子になるということ。キリストの弟子となる営みは生涯をかけて追求するもの。私たちはキリストあらいただいたくびきを背負う。キリストのくびきは柔和で謙遜な彼の性格を反映しており、私たちにとって負いやすく、荷は軽い。このくびきを通じて、私たちはキリストの弟子として、魂に安らぎを得ることができる。

キリストに従うことは、究極の安息への招きであり、天の国での安息を前味わせてくれる。主イエスによる安息の提供は、私たちが日々直面する困難や挑戦に直面する中で、真の平和と安らぎを見つけることができる確かな基盤である。