2024年01月28日「キリストの教会を整える」

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聖書の言葉

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分であったら、体はどこにあるのでしょう。しかし実際は、多くの部分があっても、体は一つなのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。神はご自身のために、教会の中でいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に癒やしの賜物を持つ者、援助する者、管理する者、種々の異言を語る者などです。皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。皆が奇跡を行う者でしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がそれを解き明かすでしょうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を熱心に求めなさい。コリントの信徒への手紙一 12章12節~31節

メッセージ

今年の教会目標は「キリストの体を整える」。心に留めたい御言葉はコリントの信徒への手紙一12章の12節~31節。キリストの栄光をあらわす教会を目指して今年も共に歩んで参りたい。

ここ数年のことを振り返る時、私たちの教会は、新しい会堂の建設やコロナ対策など、変化に対応してきた。今年は上記のように「整える」ことに重点を置く。これは、既存の教会の活動や信仰を改善し、よりキリストの体である教会に集中することを意味する。そのためにも教会とは何か。この点で追求していきたい。

パウロはコリントの教会の中にあった間違った教えを意識しつつ11章から教会について語り始める。その行き着く先は13章の愛。一コリ13章は「愛の賛歌」とよばれる箇所。教会の基盤にあるのはこの愛。これは神の愛。この神の愛に結ばれている私たちが教会に連なる一人ひとりなのだ。そしてパウロは教会を「体」と表現した。これは有機体。それぞれが独立していながらも、つながりを持つ存在。こうして一つの活動を行う。それは生きているということ。教会もまた生きている。教会が生きているということは、体が病や怪我をするように、様々な問題を抱えるということも時に起こりうる。それもまた教会の生きている証拠。そのような問題や課題を通して、神は成長を与えてくださる。

このように教会は体。一人ひとりはその部分。教会の成長・成熟のためには一人ひとりの成長が不可欠である。一人ひとりが教会全体の成長に貢献し、教会の中でそれぞれが異なる賜物と能力を持ち、共に働くことにより教会の体としての機能を果たしている。

興味深いことに、パウロは神が見劣りする部分を特別に用いて教会の完全性を築き上げる点に焦点を当てている。ここでの「見劣りする部分」とは、教会の中で目立たないかもしれない人々や、世間的な尺度で弱いと見なされる人々のこと。しかし、パウロはこれらのメンバーが神の愛と恵みを表現するために非常に重要であるという。「見劣りする」というのは「見栄えの良い」の反対語だ。見栄えの良いといは、良いという言葉に、スキームという言葉がくっついたもの。スキーム、これ最近たまに聞く言葉。スキームというのは計画とかそういうビジネス用語。私たちの計画者は神である。だとすれば、誰が自分のことを見栄えの良い、つまり良い計画だ、見栄えの悪い、つまり悪い計画だといえるだろうか。全ては神がご計画なさったものなのだから、良い計画に他ならない。

神の計画において、教会の各メンバーは重要な役割を果たす。たとえ、教会内で目立たないと思われるメンバーも、神の大きな計画の中で重要な役割を果たしている。この教えはまた、教会のメンバー間の協力の必要性を教えている。体の異なる部分が互いに協力し合うように、教会のメンバーも互いの異なる才能や賜物を活用して共に働くことが求められます。たとえば、公には目立たないが祈りや奉仕で教会を支える人々がいれば、その貢献は教会の体としての機能を支える重要な役割を果たします。

このように教会が生き生きとその命を躍動させるために、神は必要な役割を与え、ある人を特定の働きへと召し出される。その一つ一つに神の主権とご計画があることを覚えたい。