2024年01月21日「神を知る道」

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聖書の言葉

 その時、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」マタイによる福音書 11章25節~30節

メッセージ

マタイによる福音書11章25節~27節からイエス・キリストと父なる神との関係について考察したい。28節~30節の有名な箇所であるが、今回は前半部分を中心に御言葉に聞いて行きたい。11章2節からこれまでの聖書箇所はキリストに対する誤解や偏見が語られていたが、25節からはいわばキリストを信じるとはどうなっていくのかということ。

イエスが神を「父」と呼ぶことは、ユダヤ教の伝統において革命的であった。それまでユダヤ人は「私たちの父」という言い方をしていたが、自分の父という呼び方はなかった。それまで神はより遠く離れた存在として捉えられがちだったが、イエスはこれを親密で個人的な関係であることを教えたのだ。このような呼びかけは、私たちにも神を父として呼ぶ恵みを与え、神の偉大さと親密さを同時に感じさせる。それと同時に、その父は「天地の主」。つまり、天地を収めておられるお方。

イエスはまた、「知恵ある者や賢い者」には隠された神の真実を「幼子のような者」に明かされたと述べた。これは、神を知ることが単なる人間の知恵や学識によるものではなく、神からの恵みであることを示す。なぜ神はこのような仕方でご自分を啓示されたのか。それは神が愛だからである。愛とは、手間がかかりめんどうくさいことがついて回る。何か苦労せずに、誰かを愛するというのは虫の良い話なのかもしれない。そうしためんどうくささは頭の良さや賢さとはことなる。毎週礼拝に来ることは、信仰を持たない人にとっては意味がわからないというだろう。それでも、幼子のように神に信頼する私たちにとって礼拝は神の愛を受け取る場だといえるだろう。

パウロは、十字架のメッセージを「滅びる者には愚かであるが、救われる者には神の力である」と表現した。この言葉は、十字架が当時の社会でどのように受け止められていたか、そして信仰を持つ者にとってのその深い意味を示している。救い主が十字架で死ぬという事実は、当時の人々からすれば理解できなかった。ユダヤ人からみれば十字架は呪いの道具である。ローマ人からみれば、死刑になるような人は人間として認められない存在。しかし、信仰の中ではイエスの十字架は神の力と知恵の最大の証である。

イエス・キリストを通して神の真実を知り、神との親密な関係を築くことは、私たちの信仰生活において最も重要なことの一つである。神の愛は、世界の知恵や価値観を超えたものである。この神kの愛に私たち答えることによって、神からの救いと平和が与えられるのだ。