2021年12月26日「主を待ち望む」

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主を待ち望む

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ルカによる福音書 2章22節~38節

音声ファイル

聖書の言葉

さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。ルカによる福音書 2章22節~38節

メッセージ

ルカによる福音書のクリスマス物語には4つの讃美歌が収められている。その一つが、本日の聖書箇所にあるシメオンの歌と呼ばれるもの。

 このシメオンの記事を読むと、私はどこかほっとするのである。なぜならばクリスマスの記事に高齢者が登場するからである。クリスマスの登場人物はみんな若い。若いというか幼い。まず、イエス・キリストは生まれたばかり。キリストの母であるマリアは15歳前後、ヨセフもおそらく18歳とかそれくらい。羊飼いや博士達も登場するが彼等はいわゆる現役世代。バリバリ働いている世代である。

 意外なことに、信仰を持っている持っていないに関係なく、クリスマスは若い人の行事だと思われている節があるように思う。日本ではクリスマスは恋人と過ごす時だと思われることが多い。しかし、聖書はちゃんと、高齢者もクリスマスの大切な一部だと語るのである。このシメオンもそうだし、アンナも同様である。アンナとは、これは恵みという意味の名前。私たちの教会にもめぐみさんや恵子さんがおられるが、アンナはそのような意味である。この二人の高齢者がクリスマスに登場する。

 このことに私が安心を覚えるのは、教会にご高齢の方が多いということもあるが、私もいつの日か、歳を取っていくから。体は弱まり、心も落ち着かなくなり、葛藤を抱えながら生活をする日々が来る。だれも、この老いや病や死から逃れることはできない。人はどこまでも有限な存在なのである。

 しかしながら、そのような日々は、ただ単に老いていく、人生下り坂なのかというと決してそうではない。むろん、肉体は弱まっていく。しかし、そのような中で、私たちはこのシメオンとアンナのように、老いていくという現実の中にあっても、神を待ち望むことができる。むしろ、神に対する切望感というのはこれは歳を取れば取るほど、濃くなっていくのではないか。リアルになっているのではないか。

 シメオンは救い主であるイエス・キリストをこの手で抱くまで死ぬことはないと聖霊によって示されていたと書いてある。不思議な話である。しかし、はっきりしているのはたとえ、どれだけ高齢だとしても、私たちが生きているのには意味があるということ。そのことは確かなのではないか。神様は無駄なことは一切、なさらない。私たちから見て無駄だと思えることは神様にとっては無駄ではない。

 クリスマスはイエス・キリストがこの地上にきてくださったことを覚える時である。しかし、聖書によれば、再び、イエス・キリストがこの地上に来られる時が来る。それは、再臨の時、この世界の終わりの時である。その時、イエス・キリストがこの世界に来られる。クリスマスをのことを来臨とよぶ。それに対して、再臨と呼ぶ。細かい知識はともかく、私たちもまた、神を待ち望む一人一人なのである。それはいつの日か、来る。