2021年08月29日「命を与える書物」

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聖書の言葉

 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
 わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」ヨハネによる福音書 5章31節~47節

メッセージ

本日の説教題は「人を生かすための死」。このタイトルは逆説。逆説とは一見すると逆のことをいいながら、そのことで真実を伝える表現方法。

 イエス・キリスト。この御方の生涯を見るときに、今、もうしあげたような目線、視点というのはとても大切ではないか。聖書は私達にとって福音、良き知らせをつげる書物である。しかし、それが一体どうして良き知らせなのかまったくわからない。そうした場面が登場する。本日の聖書箇所、これはイエス・キリストの十字架の場面であるがその十字架の場面などはまさにそうした場面だと思う。十字架、これは死刑。一人の人が死刑になった。しかももその人はただの人ではなく神である。もし、そうだとしたらなおさらなぜ神が死んだのか。これはまったくもって謎である。しかし聖書はこれが良き知らせだというのである

 この時、十字架につけられたの御方。イエス・キリスト。この御方の生涯もまた逆説的であると言える。私はキリストの十字架の場面、死の場面を読むたびに思い出す光景がある。大学生のころ、ある大学の先生が英語で聖書を教えてくれた。この先生はもともとは宣教師だったのだが、大学で英語を教えるようになったイギリスの方。その先生が、昼休みに学生を集めて英語で聖書の話しをしてくれた。英語を勉強したい生徒や聖書の話しを聞きたい生徒が集まっていた。私もよく参加していた。その時、先生はキリストの話しをしていた。そして、なんどかこういった。日本語で訳せば「死ぬために」。キリストは死ぬために生まれた。死ぬために生きた。死ぬために十字架につけられた。

 死ぬために生まれた。普通、人は生きるために生まれる。もちろん、いずれみんな死ぬ。しかし、生きるために生まれてくる。最初から死は目的ではない。死はあくまでも結果であるが、最初からそこを目指すわけではない。豊かな人生、幸いな人生を送るために私達は生きる。神は私達をこの地上に生まれさせたのは生きるためである。

 しかし、キリストの生涯は死ぬためにあったという。その死は旧約聖書の苦難の義人のように、苦しみ、祈り、絶望の果ての死である。しかし、聖書はこの苦しみの時にこそ神は近いのだと伝えている。これもまた逆説ではないだろうか。

46節の言葉はこの苦難の義人の叫びである。キリストが神に向かって叫んだのは神に失望したからではなく、神が共にいてくださることを知っていたから。苦しみの時にこそ救いは近い。そのことをキリストが誰よりも確信していたからである。

 キリストの十字架は大いなる苦しみである。しかし、その苦しみの先には何があったのか。お見捨てになったのですかという叫びを神は聞いて下さり、捨てておかないという答えをくださったのである。聖書箇所で言えばそれが50節から53節までのところ。ここでは色々なことが言われているが、復活という言葉に注目をしてもらいたい。復活、これはキリストがよみがえられた。死に打ち勝たれた。そしてこれはまさに神の力である。人は死に勝てない。神のみが死に勝つことができる。これがキリストの復活であり神の力なのである。