2021年08月22日「人を生かすための死」

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人を生かすための死

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 27章32節~56節

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聖書の言葉

 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。マタイによる福音書 27章32節~56節

メッセージ

本日の説教題は「人を生かすための死」。このタイトルは逆説。逆説とは一見すると逆のことをいいながら、そのことで真実を伝える表現方法。

 イエス・キリスト。この御方の生涯を見るときに、今、もうしあげたような目線、視点というのはとても大切ではないか。聖書は私達にとって福音、良き知らせをつげる書物である。しかし、それが一体どうして良き知らせなのかまったくわからない。そうした場面が登場する。本日の聖書箇所、これはイエス・キリストの十字架の場面であるがその十字架の場面などはまさにそうした場面だと思う。十字架、これは死刑。一人の人が死刑になった。しかももその人はただの人ではなく神である。もし、そうだとしたらなおさらなぜ神が死んだのか。これはまったくもって謎である。しかし聖書はこれが良き知らせだというのである

 この時、十字架につけられたの御方。イエス・キリスト。この御方の生涯もまた逆説的であると言える。私はキリストの十字架の場面、死の場面を読むたびに思い出す光景がある。大学生のころ、ある大学の先生が英語で聖書を教えてくれた。この先生はもともとは宣教師だったのだが、大学で英語を教えるようになったイギリスの方。その先生が、昼休みに学生を集めて英語で聖書の話しをしてくれた。英語を勉強したい生徒や聖書の話しを聞きたい生徒が集まっていた。私もよく参加していた。その時、先生はキリストの話しをしていた。そして、なんどかこういった。日本語で訳せば「死ぬために」。キリストは死ぬために生まれた。死ぬために生きた。死ぬために十字架につけられた。

 死ぬために生まれた。普通、人は生きるために生まれる。もちろん、いずれみんな死ぬ。しかし、生きるために生まれてくる。最初から死は目的ではない。死はあくまでも結果であるが、最初からそこを目指すわけではない。豊かな人生、幸いな人生を送るために私達は生きる。神は私達をこの地上に生まれさせたのは生きるためである。

 しかし、キリストの生涯は死ぬためにあったという。その死は旧約聖書の苦難の義人のように、苦しみ、祈り、絶望の果ての死である。しかし、聖書はこの苦しみの時にこそ神は近いのだと伝えている。これもまた逆説ではないだろうか。

46節の言葉はこの苦難の義人の叫びである。キリストが神に向かって叫んだのは神に失望したからではなく、神が共にいてくださることを知っていたから。苦しみの時にこそ救いは近い。そのことをキリストが誰よりも確信していたからである。

 キリストの十字架は大いなる苦しみである。しかし、その苦しみの先には何があったのか。お見捨てになったのですかという叫びを神は聞いて下さり、捨てておかないという答えをくださったのである。聖書箇所で言えばそれが50節から53節までのところ。ここでは色々なことが言われているが、復活という言葉に注目をしてもらいたい。復活、これはキリストがよみがえられた。死に打ち勝たれた。そしてこれはまさに神の力である。人は死に勝てない。神のみが死に勝つことができる。これがキリストの復活であり神の力なのである。