2026年06月21日「鶏が鳴く前に」
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鶏が鳴く前に
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章69節~75節
聖書の言葉
ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。マタイによる福音書 26章69節~75節
メッセージ
大祭司カイアファの屋敷の内側でイエスがただお一人真実の側に立っておられたその同じ夜、屋敷の外の中庭にもう一人の弟子が座っていた。ペトロである。五十八節が伝えるとおり、彼は遠く離れて従い、危険を承知で中庭まで来ていた。他の弟子が皆逃げ去った中で、誰よりも主を愛し、「御一緒に死なねばならなくなっても」と言い切り、剣を抜いて手下に切りかかった、あの勇ましい一番弟子である。
その彼を崩したのは、剣でも脅しでもなく、武器を持たない一人の女中の何気ない一言だった。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」。取るに足らない召し使いの娘の言葉の前で、岩のように堅かった弟子が崩れ始める。一度目は「何のことか分からない」ととぼけ、門の方へ移って二度目には誓いを立てて否定する。かつて主は「一切誓いを立ててはならない」と教えられた。その教えを誰よりもよく聞いていたはずの弟子が、屋敷の内側で主が誓いの罠に黙して耐えておられる、まさにその時、外側で自ら進んで誓いを乱発している。三度目、人々はその訛りを指摘する。口では「知らない」と言い張りながら、彼自身にはどうにもできないガリラヤの訛りこそが、「お前はあの方の側の者だ」と証ししてしまう。隠そうとしても、彼の存在そのものが嘘を裏切る。問い詰められた末、ペトロは呪いの言葉さえ口にする。多くの学者が読むとおり、ここで彼が呪い始めているのは、愛していたはずのイエス御自身であった。言葉が一段ずつ汚れていくのと歩調を合わせ、彼の足もまた中庭から門へ、門から外へと、一歩ずつ主から遠ざかっていった。
人間の言葉がこれ以上ないほど醜くなった、まさにその瞬間、聖書はただ「するとすぐ、鶏が鳴いた」とだけ記す。雷でも天の声でもない、ありふれた夜明け前の鶏の声である。その声が、イエスの言葉を甦らせた。ルカが主の眼差しを伝えるのに対し、マタイが記すのは眼差しではなく言葉である。神が語られた言葉は必ず実現するという、マタイが初めから語り続けてきた一事が、ここで主イエスの言葉について起きている。「鶏が鳴く前に三度知らないと言う」との言葉が一字一句たがわず成就した。ペトロを悔い改めへと向かわせたのは、彼の決意でも反省でも愛でもなく、否認されても呪われても消えなかったイエスの言葉であった。それは否認の闇の最も深い底まで追い、語った本人ではなく、それを否んだ者を貫いた。
イエスの言葉を思い出した彼は、もはや一言も語れず、外に出て激しく泣いた。「激しく」は「苦く」をも意味する。饒舌な嘘がすべて崩れ落ち、語る言葉が尽き果てたその沈黙の中で、はじめて彼は神の前に真実な者として立つ。この涙は絶望ではない。届かなければ人は泣けない。涙こそ、主の言葉が確かに彼に届いた証拠である。嘘が露わになることが福音なのではない。崩れ落ちたその人をなお主の言葉が追いかけ、捉え、涙へと砕くこと、そこに福音がある。人がイエスから離れるのは、たいてい大きな迫害ではなく、誰かの何気ない一言、わずかな気まずさ、「今日くらいは」という小さな譲歩からである。けれども否認の底まで墜ちた者を追ったその言葉は、誰の「門の外」にも必ず届き、そこで甦って捉え、涙へと砕くのだ。