2026年06月07日「夜の逮捕」

問い合わせ

日本キリスト改革派 綱島教会のホームページへ戻る

音声ファイル

聖書の言葉

イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。マタイによる福音書 26章47節~56節

メッセージ

ゲツセマネの園で「御心のままに」と三度祈り終えられたイエスのもとに、松明と剣を携えた大勢の群衆が近づく。静かな祈りの園は、武器と裏切りと暴力に満ちた騒がしい夜へと一変する。その先頭に立つのは、十二弟子の一人ユダである。

ユダは接吻を裏切りの合図と定めていた。原文の語は単なる挨拶の口づけではなく、心を込めて繰り返し熱烈に口づけする強い言葉であり、最も親密な愛の仕草が、裏切りのしるしとして用いられている。裏切りとは、見知らぬ敵の顔をしてではなく、最も近い者の愛の形をとって訪れるのである。それに対しイエスは「友よ」と呼びかけられる。これは心からの親しい友でも、冷たく突き放す敵でもない、距離と緊張をはらんだ呼びかけである。死ぬばかりに悲しいとゲツセマネでもだえ苦しまれた方が、今は取り乱すことなく、静かにユダの名を呼ばれる。それは、杯を受け取られたとき、戦いがすでに終わっていたからである。すべてを父の御手に委ねきった者の静けさが、そこにある。

弟子の一人が剣を抜いて手下の耳を切り落とすと、イエスは「剣をさやに納めなさい」と制し、願えば父が十二軍団以上の天使を遣わされると言われる。一軍団六千、七万を超える天の軍勢が合図を待っている。イエスは力を奪われて捕らえられるのではない。圧倒的な力を握りながら、あえて用いないことを選ばれるのである。世の主権が「できることをする」力であるのに対し、この方の主権は「できることをあえてしない」自由として現れる。縛られずにいられる方が、聖書の言葉が実現するために、自ら縛られる道を選び取られる。

群衆は昼の神殿では手を出せず、夜の闇に紛れて武器を手に来る。光を避け、闇を選ぶこの逮捕のただ中で、起こることの意味を定め、聖書によって解釈しておられるのは、ほかでもない、捕らえられているイエス御自身である。

やがて弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去る。数時間前、死んでも離れないと誓った者たちが、ことごとく背を向ける。誓いと逃走の落差は、礼拝の場では信じながら肝心なときに逃げてしまう弱さと重なる。だがイエスは「今夜あなたがたは皆わたしにつまずく」とすでに知っておられ、知った上で彼らと食卓を共にし、彼らのために捕らえられることを選ばれた。逃げる者の後ろ姿さえ、この主権者の御手の外にあるのではない。共に祈った者が信仰から離れ去り、それを引き止められなかった痛みも、この御手の中にある。

弟子が去った園に独り残されたその方こそ、実は最初からこの夜の主であった。剣を納めさせ、天使を呼ばず、すべてを聖書の実現として治めておられたのは、この独り残された方である。であれば、人の弱さも裏切りも、また見送るしかなかった者の逃走さえ、この支配の外にこぼれ落ちることはない。逃げ込んだ闇にまで、静かな支配は確かに及んでいる。これは安易な慰めではなく、重く深い希望である。

逮捕のわずか数時間前、まさに逃げ去ることになる同じ弱い弟子たちと、イエスは食卓を共にし、裂かれたパンと血の杯を渡された。それは忠実な者への報いではなく、まもなく散る者へ先に差し出された恵みである。独り静かにこの夜を治められた主は、今も、逃げる者とその愛する者を御手に握っておられる。