2026年05月31日「眠る弟子と祈る主」

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眠る弟子と祈る主

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 26章36節~46節

音声ファイル

聖書の言葉

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」マタイによる福音書 26章36節~46節

メッセージ

眠る弟子と祈る主 マタイによる福音書26章36節〜46節

わたしたちが毎週の礼拝で唱える主の祈りには、「御心が行われますように」という一言がある。この祈りが最初に祈られた場所こそ、ゲツセマネの園であった。ゲツセマネとは「油搾り」を意味する。オリーブの実は重い石の下で押し潰されて初めて油を流す。聖書において油は王や祭司の頭に注がれるものであり、「油注がれた者」とはキリストという言葉そのものである。油を搾り出すその園で、まことの油注がれた御方が、ご自身砕かれていこうとしておられた。

その園で、主イエスは悲しみもだえ始められた。死を幾度も静かに語ってこられたイエスが、いざその時が迫ると地に顔をつけてもだえられた。これは新しい事実を知ったからではない。十字架が父の御心であることをすでに知っておられたイエスが、それをまことの人として、感情と意志のすべてをもって引き受けようとしておられたのである。知っていることと、それを生きることとは違う。主は神であられたから痛みを免れたのではなく、わたしたちと同じ恐れと孤独を、ごまかしなく味わわれた。痛みを感じきったうえでなお手放す、その苦しい道を選ばれたのである。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。この杯は、聖餐の食卓で弟子たちに分け与えられた契約の血の杯であり、旧約において神の怒りを盛る器であった。その杯を分け与えた主ご自身が、それを飲むことに身もだえしておられた。

主が祈っておられたとき、傍らにいてほしいと願われた弟子たちは眠っていた。死んでもあなたを知らないとは言わないと誓った同じ口が、一時間の目覚めすら保てない。だがこの夜、眠っていないものがあった。一つは主の祈りであり、もう一つは罪である。弟子たちが眠り込む間に、闇の中ではユダと祭司長たちが目を覚まして働いていた。信仰の眠りは中立ではない。わたしたちが眠る間にも、誘惑と罪は決して眠らないのである。

二度目の祈りでは「過ぎ去らせてください」が消え、「あなたの御心が行われますように」だけが残った。それはわたしたちが毎週唱える主の祈りそのものである。ルターは、主の祈りは最も多く殉教していると語ったと言われる。祈る者自身が、なんとなく口にすることで、その祈りを殺してしまうのである。だがゲツセマネを覚えて祈るとき、わたしたちの祈りはあの夜の主イエスの祈りへと引きずり込まれ、生かされる。なんとなく祈るとき人は眠り、ゲツセマネを覚えて祈るとき、祈りにおいて目を覚ますのである。

三度目も同じ言葉で祈り抜かれた主は、立ち上がって言われた。「立て、行こう」。これは逃げる呼びかけではなく、引き渡される者を迎えに行く呼びかけであった。祈りは慰めの言葉でも心を落ち着かせるためのものでもなく、血を流す決意であった。祈り終えた主は、弟子たちに分け与えたあの杯を、十字架の上で最後の一滴まで飲み干してくださった。十字架はいのちを差し出す出来事であると同時に、「御心のままに」を最後まで貫き通された従順の出来事である。わたしたちの救いは、誓ってもすぐに破り、眠り込んでしまうわたしたちの従順の上にではなく、ただこの御方の従順の上に立っている。

「御心が行われますように」を最初に祈られたのは、地に顔をつけ、死ぬばかりに悲しみ、血を流して祈り抜かれた主イエス・キリストであった。わたしたちが眠っている間に、この方は祈り、立ち上がり、十字架へと進んでくださった。この一言には、ゲツセマネの汗と十字架の血が染み込んでいる。