2026年05月24日「息を吹き入れる風」

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息を吹き入れる風

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章15節~31節

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聖書の言葉

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」ヨハネによる福音書 14章15節~31節

メッセージ

教会の暦はペンテコステを迎える。主イエスが天に昇られて10日目、約束された聖霊が弟子たちの上に下り、教会が生まれた日である。最後の晩餐の夜、主イエスは新しい契約の食卓を制定されたが、その同じ夜、別離を前にしておびえる弟子たちに、長い告別の言葉をも残された。

ヨハネ福音書14章は「心を騒がせるな」という言葉に始まり、再び「心を騒がせるな。おびえるな」という言葉で結ばれる。章全体が、心を騒がせ、おびえる者たちへ向けられている。弟子たちの恐れの正体は、三年間共に歩んでこられた方との別離であった。主イエスはその恐れを慰めの常套句で覆わず、最も鋭い言葉で言い当てられる。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。みなしごとは、身寄りを失い、自分を知っていてくれる者を失った最も脆い存在。その恐れは、配偶者を見送った者、身体の衰えを覚える者、自分の居場所を探す者の内にも響く。主は私たちの恐れを見て見ぬふりをなさらず、正確に名指した上で否定される。

主イエスは「別の弁護者」を遣わすと約束される。弁護者と訳される語は、傍らに呼び寄せられ、傍を離れない方を意味する。「別の」とは「種類の異なる」ではなく「同じ種類の、もう一人の」である。去って行く主と同じ性質を持つ方が、もう一人来てくださる。そしてここに決定的な転換がある。これまで聖霊は弟子たちと「共に」おられた。しかしこれからは「内に」おられる。傍に立つ方から、住み込まれる方へ。父も子も信じる者のところに来て住まわれ、三位一体の神ご自身が、信じる者の内に住まわれるのである。

聖霊を意味するギリシャ語プネウマ、ヘブライ語ルーアハは、風・息・霊の三つを一語で表す。神が土の塵に命の息を吹き入れられたとき、人は生きる者となった。枯れた骨の谷でエゼキエルが預言すると、霊が吹き入り、骨は生き返って自分の足で立った。復活の主イエスは弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われた。ペンテコステの日には天から激しい風の音が響いた。創造の息も、枯れた骨に吹いた風も、復活の主の息も、ペンテコステの風も、すべて同じ神の息である。聖書全体を、一本の風が貫いて吹いている。

ここに驚くべき恵みがある。地上の主イエスと三年を共にし、その声を聞き、御顔を見た弟子たちの近さは、「共にいる」近さであった。しかしペンテコステの日から信じる者に与えられたのは、「内にいる」近さである。聖霊をいただいた一人ひとりは、ペテロやヨハネよりもキリストに近い。これは詩的な誇張ではなく、神学的な事実である。

人生において外側にあるものは、少しずつ失われていく。体力も記憶も衰え、共に歩んだ者は一人また一人と召されていく。しかし内に住まわれる方は失われない。むしろ外側のものが取り去られるほど、内住の主の現実は鮮明になる。どんなに弱り、孤独を覚えても、信じる者は孤児ではない。求道の歩みの中にある者にも、聖霊は静かに近づいておられる。注がれた契約の血は、その者の内に契約を保証する霊が住み込まれるためであり、聖餐と聖霊降臨は、一つの恵みの二つの面なのである。

本日の御言葉は「さあ、立て。ここから出かけよう」と閉じられる。私たちもまた礼拝堂を出ていく。もはや孤児としてではなく、内に神を住まわせていただいた者として立ち上がる。神の息は今もこの場に吹き、信じる者の内に住み込まれている。この恵みに、感謝をもって応答する一週間でありたい。